三月

▽朝起きたとき、どうもご機嫌がわるく、むずがってばかりいたのだが、医者に診て貰ったら阿多福風とわかり、幼稚園を休むことにした。聞きわけがよかったり、わるかったりで、始めのうちは水枕で冷やし、冷やすのがいやになると、ころがしてみたりして四、五日臥ていたが、どうにか元気になった。
▽日曜日、一しょに炬燵にあたって本を読んでやるうち、ひょいっと「おじいちゃんはいくつまで生きるの」そう言い私の顔を見た。ほんとうのところ、私は呆気にとられ、女の子だが孫の顔をこちらからも見やった。
▽からかうわけでもなく、そして皮肉でもないのは、その真顔であることからわかる。それにしても思いきった急所を突く按配である。
▽これがもう少し歳のませた小学生や中学生の孫からいわれたとすると嫌味だが、おどかしだか見当がつかない。そういっておいてニヤニヤしないでもないとすると一層つらい。
▽だが、幼稚園生からふいの賢問にこちらは賢答をすぐ出せない始末だった。そのまま時間が過ぎたところで、テレくさそうに笑ってみせたが、困らせてやったといういやらしさはなく、何となく納まった。それでよかったのだが。
▽ベンジャミン・リチャードは、自分がいくつまで生きるかという算出法を統計上考えた。「自分の両親の齢と、父方と母方の祖父母の齢を統計したものを六で割った齢」とした。ことあらたまって私はやる気はない。それにしても現在進行中のものがいくつまで生きられることを速答できるものであろうか。孫の賢答は或いは難問なのか。
▽テレビで、家族が観ているのに「北の国から」がある。いつだったか、おじいさんが逝くなるところがあった。画に出てくるおじいさんと、うちのおじいさんとをくらべながら、現にここにいるおじいさんに、いつまで生きるかと率直に私に訊きたかったのかも知れない。人それぞれが持つ寿命は既にきまっていると判断して、わが孫は私にただしたのか。また「しっかりして頂戴、生きていることをたしかめてね」と。