柳多留三篇輪講・最終回(六十五)後書き再録

輪講部分は省き、最終回にあたっての後書きのみ再録します。】

(沙華【大村沙華】)以上を以て三篇輪講は講了といたし、読者永年のご愛読と供述各位のご協力を感謝したします。三篇着手が昭和五一年五月号の「しなの」。以来五年を費しました。初篇を八年の星霜を経て至文堂から出版したのが昭和四七年。同二篇は出版社に廻してありますが、小生との間に出版条件に齟齬があって、まだ印刷にかかることを小生は許しません。輪講の雑誌掲載はご好評を戴いておりますので、右契約がまとまりせんでしたら、単行本は他社へ移しても可。輪講上梓は五篇までと公約したのですが、三篇までを実施し、残余は右の経過次第といたします。
 折々読者からご照会を頂く小生の健康は、お蔭様にて上々にて、四年前の単純胃潰瘍は再発の心配はありません。四篇以下輪講の雑誌掲載は中止しますが、これは小生の出身母校の機関誌「通信同窓会誌」から柳壇選者をたのまれ、すでに五十四年十月号から実施している為であります。選をするのはよけれど軸の選者吟をもたのまれ、この方が面倒。同誌は通信官吏練習所の出身者を会員とし発行部数一万五千部、随時小生の随筆も掲載の約束であります。在京読者は帝国ホテル際千代田区内幸町一の一、日本電信電話公社内財団法人逓信同窓会編集局にお立寄りになれば会誌の閲覧が許されましょう。昨年神奈川県第四区より最高点当選の社会党代議士 大出俊君は小生の後輩で、テレビでご承知の如く汚職追及等で名を挙げていますが、小生一家は鶴見女子大昨年卒の孫娘を含めて計五票を同君に捧げました。


   石曽根民郎
 初篇輪講が始まる昭和三十七年から、三篇が終わる昭和五十六年まで合冊した本誌を並べてみると、ちょっとした壮観である。輪講者のご研鑽とご苦労のほどがひしひしと迫ってくる。万腔の感謝を捧げたい。実に足掛け二十年の結晶であった。それだけ歳月が流れ、それだけ時の光芒のきらめきがあったのだというたしかな手応えである。
 昭和三十七年は世界体操選手権男子団体で日本チームが優勝したし、長野県では小学校一年生の教科書を無償供与したとしであった。大村沙華氏を礎稿とする初篇輪講が富士野鞍馬、山路閑古、比企蝉人、浜田桐舎、杉本柳汀、山沢英雄、田中蘭子氏の共述により開講となった本誌は、十、十一月合併号、顔触れが賑々しく誌上を飾ることで、丁々発止と議論の応酬が早くも期待されたのだった。そしてその通りに活溌な雰囲気に盛り上げた。
 初篇は昭和四十五年十二月号、第九十回を以て終講し、翌年一月号から鈴木倉之助氏を加えて二篇開講となり、これは昭和五十一年四月号まで第五十八回に及んだ。
 その間、昭和四十七年十月に至文堂から一本となって上梓され、序文吉田精一氏で世に問うた。いま絶版となり、大方の要望も空しく入手困難、古本でさがすよりほかはない状況である。そのため拙社へ照会が屡々あり、その返答に忙殺され、なかにはバックナンバーを取り揃えて貰いたいとの懇望黙し難く揃えるだけ揃え、欠号の分はコピーで補足してあげた。文献としての重要性をそのときしかと知った。
 三篇は二篇のあとつづいて昭和五十一年五月号から開始、そして本号で第六十五回を以て終了した。輪講者のうち、物故その他による離脱があって残るものは大村沙華、浜田桐舎、山沢英雄氏の三人となったが、堅忍目重いよいよ博引旁捜そのやむところを知らなかった。壮とすべきである。
 反響として昭和五十三年八月、文芸春秋発行、谷沢永一氏の「完本・紙つぶて」で(古川柳の研究)(六万石の大名が川柳を投句していた)の二項目に於て本輪講の成果と必読の研究であることを紹介して下さった。本年六月に出た「紙つぶて二箇目」にも本誌に関し紹介の記事を忝なくした。