八月

▽暑い日盛り、家族と一緒にお盆の墓詣りに出掛けた。孫たちは可愛がった犬と兎の小さな墓に頭を垂れていた。
▽帰って来たら京都の吉野良三君が訪ねてくれ、私のいない留守と知って他へ向かったという。惜しいと思った。こちらにおられた頃は川柳句会によく出席、県下の大会にも精励してくれた。
▽松本を去ってもう二十数年になる。京都にもいくつか川柳グループがあるから顔を出し給えとすすめたが、妙に尻込みして出席しょうとはしなかったらしい。
▽短歌もやれば俳句もこなす良三君のこと、文学の道に相変わらずいそしんでいた。いつだったか、週刊朝日の特別寄稿でそのお名前を見た。ちょっと古いが昭和五十年の京都勤労者文化祭文学コンクールに第一位で、京都市長賞を受賞されたと言って来た。「まさぐりの鴟尾」である。
▽飛鳥古京を守る会というのがあり、その会員で機関誌「あすか下京」には「天武信濃遷都考」をしばしば寄稿していたから、或いはこんどの入信はその調査かと思われた。会いたかった。そう考えて彼の風貌をしのんだ。
▽十四日は雨降り。すごく降った。伜は明日の餓鬼岳登行をもくろんで、しきりに天気予報を気にしていた。小屋にも電話をかけ、空模様をたしかめた。明日行こうと、まさかつと約束した。
▽果して十五日は晴れた。突然、豊中市からこの日来てくれた久保千鶴子さんも、この日の快晴を望んでいたのだった。彼女は大学生のたった一人の男の子と一緒だった。まだうら若い学生時代から彼女とは知っていた。津山市の定金冬二君が雑誌をとるなら「川柳しなの」とすすめてくれ、それ以来の読者なのである。
▽ほんとうに待ちに待った私との初めての対面で、子供と苦労した十数年、師と仰いだという私との邂逅であった。子供さんの言うには、信州の民郎にいつか会おうと口癖にしておられたという。それにしては拙き師で、面目ないと私は苦笑した。殆ど旅に出ることをしなかった千鶴子さんの、いま開放された旅の空は、まさしく信州であり、そして晴れていた。