九月

▽持病があるわけではないが、何かの折、近所の医者はさりげなく、あんまり俺の処の厄介になるのはいい加減にしてサ、ほどほどの晩酌をやって見るのも、からだを可愛がるひとつの方法だと、柔和な顔つきをする。それまでは家で一滴も飲みたがらずに控えていたが、この医者の思いやりをいいことにして晩酌をするようになって久しい。この医者も元気だ。
▽人の前に起って一席弁ずるときは、アルコールが入っているとき、気分がおちつくというものだから少しきこしめして行く人があると聞くが、鎮静剤を利かすより、酒が廻って来て、家族のものたちとまどいのひとときを味わう方が私には合っている。快楽派だし、まろやかな雰囲気が生まれてくるのを待つくだりが好きである。
▽その代り煙草は一切やらない。喫うきっかけや喫いたいと思うことがなくてすんで来た。追い込まれたとき、テレ隠しが出来ない性分で、グッタリしょげる気弱さから、いやにかまえた恰好で煙草を喫いつけるテクニックみたいなゼスチャーは出来そうもない。それもあるだろう。
▽此頃、嫌煙権を持ち出して煙草吸いをきつくたしなめる人達のような勇気はこれっぽっちもない。吸いたいものは吸わしておけばいい、それでうまい知恵が浮かんだり、焦燥や苦悩を癒すことが出来たらいいなと思う。煙りがスーっと流れて来たら、そっと除けて嫌な顔もせず、こちらで話し掛けてやったり、また煙りが来たら、今度は掌で軽く払う風になびかせよう。人がよいかな。
▽女房は吸う。もう板について愛煙家である。いつから始めたのか嗜好品だからそれほど気にもとめずにいたのが迂闊だった。われながらいっそおかしい。伜も好きだったがキッパリやめた。いま続行中の母親に向かって手きびしいがエヘラエヘラとりなし、平穏を装い巧みな手つきで喫いつける。
▽手持ち無沙汰でアイデアが出て来ないとき、俺も煙草をやっていたらと悔やむことが少しはある。既に遅い。床前にいま架けた書幅は泰山刻石の朱拓「福」。あたらずさわらず、おのがおのもの家びとの福よりあれがしと眺めている。