八月

△今年も蚊帳を吊らずに過ごせそうである。蚊がいなくなったせいだが、まるっきり飛んでいないでもない。チクリとやられて、こんなところにいたのかと、ちゃぶ台の下をのぞきこんで、いまいましく思うことがある。
△寝るとき戸を開けて風の入るあたりに、蚊遣り線香をいぶしておく。スーっと煙りが動いて、少し匂う。暑さでさて団扇をあおぐほどでもなく、ついウトウトと眠りに入る。翌朝、どこもさされた様子がないことに気付いて、かゆくもないのにそこらを一応かいて見る。癖のようだが、快い。
△還境がよくなったせいで蚊の姿が消えたのだろう。蚊帳を吊って、なかに蛍を放した思い出がなつかしい。淡い光芒が明日とも知れぬ生命を流すのである。蚊も出ない代りに、蛍も出なくなったと思ったら、郊外に出ると此頃蛍が飛んでいるのに出逢う。蚊よりも可愛いらしい。なかぬ蛍が身をこがすという。思いつめた表情がいとしくなってくる。
△松本地方は暑中休暇が短い。旧盆が過ぎると間もなく二学期が始まる。夏休み宿題帳を整理するのがお母さんの役目みたいだ。お父さんの方は、遊びたいだけ遊ばせておけの、自分なりの意見で宿題帳をあまり見てやらない。
△よそに嫁にいった娘が実家に暑中休暇でやって来る。こっちの家族の面倒を見たり、子供の宿題帳を見たりするこの家に来た嫁も大変だなと思う。さてそんな例は自分の家にもあるなと、空とぼけてばかりではいられない。
△親が丈夫でいるうちだから会いに来るのだよ、両親の方でもこれが親子の間柄じゃないか、そう思うことさ、けむったがれてまるっきり来なくなったでは隣近所に向きもわるかろうがねと誰かがいったけ。
△その滞在も傍若無人でわが尽一方の手合いでも困るし、長く横着をきめるようでは、声には出さぬがうるさかろう。来るときすうっと来て、一緒にお勝手元を手伝ったり、今夜のおかずはどうしよう、相談して買いに行ったり協力すれば、そこはまた微妙なもので気持ちよくつながるだろう。そしてまた「お厄介を掛けました」あっさり去って行く風だと「まだ早いのにね」止めてやる位いのゆとりも出る。
△お盆が過ぎると、めっきり朝夕しのぎよくなり、虫たちがもう鳴いていると耳を澄ます。あたりを見廻せば、いつもの通りの顔触れ、ほっとしたおももちできょうも箸を使っている。