二月

△どの部屋からでも北アルプスの連峰を眺められるといえば、普通の家ではちょっと無理だが、これが宿屋ならそんな恰好にこしらえて、客たちの目の保養に供してくれそうだ。
△寒湯(かんゆ)だと思ってみんなで出掛けたらと誰か言ったら、率先孫たちは賛成の声を挙げた。まず家族一同が家を離れることなんて滅多にないし、それに一泊しようという計画だから、いろいろ言ってないで一気にやろうと決まった。こんなに大勢で行くのは私は初めてである。
△翌日は前の方の店が休み、孫たちも寒休み(かんやすみ)とダブって、倅だけ家に居残り、私たちは一緒になって車を走らせた。一時間もかからぬところにある温泉宿だから家の延長のようなもの。
△孫に催促されて、私は浴場に行った。ひろびろと、熱くなく、ゆっくり入浴出来、窓から山のたたずまいが近づいて来る。鎌倉時代に山腹がくずれて霊湯が湧出、病んだ猿が入り治療しているのを見つけてから、神経痛の名湯として広く知られるようになったという由緒を思い出した。
△ロビーに掲げてある横額は、喜寿姥とある若山喜志子のうた。
  峰まろき雑木のやまのいろめきは  秋もよけれど春もまされる
を初めとして九首。
  枯山のところ【どころ】に立ち生ふる  老松に雪は降りおもりつつ
△山肌に少し雪はあった。たくさん降ったら、この作品のように老松の青をかたむけさせるだろう。それが目に見えるような静かな景観がひろがっている。喜志子は若山牧水の夫人。この地に久しく滞在した。過ぎし日、友人の歌集出版祝いに招かれ、そこでこの大御所と席を同じうした。白髪の老婆、きりりっと動じなかった。歌集の批評に辛辣な辞を述べたあとを受けて、非常に理解あるいずれをよしをせぬことばが皆を静まらせた。さすがだといまも迫る。
△とても安らかな一夜の奢りをもったいながった。そして朝、私が先にひとり発つとき、ほど近いところに建つ喜志子の歌碑を仰いで自分も同じ信州人だと呟いた。
  山にすめば見るもの思ふことみな美し  霧の中より雪はふりつつ