三月

△齢だなあと述懐することがあっても、さてすごすごと立ち去るような気持ちにもなれない。ここまで来たからには、遮二無二見ておかなくてどうするものぞ、そんな大それた野望があるわけではないけれど、あるがままに、たまにはしくじりをおかして見ても、いいさ、このくらいのつまづきはお愛想と見のがしているわけだ。
△遠くで呼んでいるひとの声が、案外近いように思えるときがあって、やっぱりそうかとあたりを見廻したりし、別の世界がわりかしすぐそこに在ることを悟り顔で、しかつめらしく襟を正したりしている。昔のことがいやにきちんと整った幻影で戻って来ると、しきりに幼な顔がよみがえり、あまりにも若くして去った友達のおもかげが胸をしめつける。
△いつもそうだが、さし神仏に敬虔な情が厚いとはいえない。時が来てみんなと一緒に晩餐を共にする少し前、祖霊の前に手を合わせ、一日の平安だったことを感謝だけはしている。習慣は惰性のようなものだけれど、そうせねば心がしまって来ない。
△年の暮れにご機嫌をうかがいに行かねばならぬ友があったが、ついまぎれて越年、やっと見つけたと或る日、見舞いに出掛け、よもやまの話に打ち興じ、汐どきと思って辞したが、近くのバスの停留所で待つことにした。暫く待つ間ふっと寒む気がしたと感付いて、首をちぢめたその時風邪を引いたことになってしまった。
△急に発熱、帰宅してから寝込むような仕末で、われながら味気なく、打った注射で熱はさがったものの、唇や鼻のあたりにかぶれがにじみ出て来、二日たち三日たちして、すっかりビールス菌が集中し、見るに忍びぬえげつない顔と変わった。皮膚科に毎日通い、根気よく乾くのを待つ事にした。
△鼻の頭と鼻の下と唇の廻りが赤い斑点に掩われ、妻からまるでピエロだとからかわれた。そういえば此頃の心境では人生の喜劇を下手ながら演技しているから、さこそとうなずき、毎日へまをしでかしあわてたり、変に真面目っぽくなり、やがていらだちする不遜な舌足らずが、ついにここに具現したかとすら思ったりしている。