一月

△元旦のすがすがしさはいつもと同じだと思い、気張ったつもりはなく、それぞれ新しい歳をことほぐ顔を合わせた。家中、みんな元気であることが当たり前のようでありきたりな構成のうちに、お互いのベース盤に腰おちつけた静かなひとときである。
△そのひとときは何だろうと、理窟っぽく考えないで、真新しい歳の一番初めの日にまた出逢った不思議でも何でもない平凡さが、嬉しくてしょうがない連中である。孫たちにお年玉を頒けた。小さい祝儀袋に名前を書いてやって、それが二人だけはもう読めるというのに気がついて、すくすくと大きくなってゆく頭を撫ぜてやった。
△一番下のはまだ誕生日が来ないので、炬燵の廻りを何とか手で支えてめぐろうとする仕草がいとしく、たまにちょっとした叫び声を挙げるのだが、これは小さいが自分の意志を発表したがっているなと、こちらで受け取ってやる。
△テレビを入れると、流行歌手のこまちゃっくれた年頭感がやりとりされ、そして得意ののどを聞かせていた。みんな若く、その若い人生経験をうたで実験しているのであった。家の中も、テレビのなかも、みんな若いなと思った。
△元旦には親類に新年の挨拶をしにゆくところはきまっている。そうたくさんはない。当てがあってそこだけは私より年を重ねた伯母さんが丈夫でいるということで、新年にふさわしいめでたさが湧いてくるのである。今年も、一番初めの日に会えたなという安堵を味わいたくて出掛けた。
△蒲団のうえでゆっくり休む恰好で、バッチリ目を開いてあたりの様子をうかがっていた。会釈したがわからないらしく、私の名前をいうと「民ちゃん、うれしいな、よく来てくれたな」手を握って放さない。それが力強いのである。
△涙なんか出して嬉しがっているのも、決してゼスチァーなんていうものではない。ほんとうのところをあらわしているんだろうなと、しみじみ思った。伯母さんは百歳で、こうして元気でおられる。ときどきふいに君が代を歌って驚かすという。また童べ唄がよどみなくうたわれ、人に聞かせるようで自分に聞かせているのだろうか。