八月

△戦後、劇団タンポポというのがあちこちに公演して評判になったが、本拠は松本市笹部ににあった。そこにしばらく所属していたということで、曽遊の地を久し振りに訪れた小池章太郎さんにお会いした。まだ見ぬ松本の地だった同伴の奥さんを案内がてらである。いま前進座の文芸部に居られるが、舞台演出考証のため古句を探究している。
△市内の温泉宿で偶然来てくれたマッサージ師の、もみながら自作の短歌を披露されたことに触れ、それが心に響いたようで、さすが信州だなあと、旅愁を味わった顔つきになって語ってくれた。思い出の地に来て、風物と人情の交わりのなかで、かもされた快い感動だったのだろう。その劇団タンポポはいまはないが、活躍した頃だったか、昭和二十一年に「川柳しなの」が復刊した。A6判だからいまの半分の大きさだった。初めは二木千兵さん、猪股雀童さんの肝入りで、手っ取り早く謄写刷りでお目見得したが、やがて活版刷りになった。表紙に季節的な図柄で手彩色の木版を貼った。
△先ず黒で木版を摺ると、これに一々手彩して意匠をこらすのである。すべて丸山太郎さんで、手彩も丁寧に克明だった。それが受けて続いた。そしてもとのA5判に変った。後になっても、あの手頃の大きさで、表紙の色を毎月替え、そこに違った木版を貼った趣向が気に入られ、半分だった雑誌をなつかしむ人々が多かった。中でも食満南北さんは大の「川柳しなの」フアンで、よくご寄稿願ったが、A6版の頃を振り返って、なつかしがる長いお手紙をいたゞいた。
△ああ、あのころは丈夫で句作に励んでいた小宮山雅登君が、この八月十二日に逝去された。新しい川柳の分野に雄飛して、その期待に背かぬ万丈の気焔を吐いた雅登君だったのに、春秋に富む将来をさえぎられ、ついに消えて行ってしまった。八月句会はその追悼句会になった。席題「雅」「登」に彼を偲び、黙々と案じた。暑い夏の宵であった。果ててみんな後姿、を意識しながら別れて行った。きらめくきつい星があった。
△私たちはに四百一号の出発が始まる。