七月

△一昨年の夏、うちの前の店「百趣」で、信濃山岳画協会展を開催中のとある日、浴衣がけで藁帽子を冠った人がのっしのっしと「石曽根いるか、呼んで来給え」と言いながら這入って来た。私が奥から出て行って、どなたかなといぶかりながら会って見ると、まぎれもなく中村善策さんで、やあやあこれはこれはと久濶を叙す挨拶が先ずさきだった。
△思い立って東京から出て来て、これから明科町の豫ねて知り合いのそば屋へ行くという。居合わせた協会の人も、まさか同じ一水会の御大が、突然お見えになったので、それもこんな恰好なので、ちょっと驚いたらしい。一くさり話した後、画廊PRのことばをすらすらと原稿用紙にしたためて下さった。店で盃など二、三点買ってすたこらと明科へ向った。
△本誌が七月号で四百号になると聞いて、それに間に合うようにひたりと二点、表紙用に届けて下さった。そのひとつが本号を飾った。信州から発行の「川柳しなの」の土地柄にしてはちとふさわしくない風景と思う方があるかも知れないが、ここのところは小樽海岸でいい筈ではないかと私は思い当っている次第。というのは、後便によると入院中の病院で画いたもの、病臥中とあれば、ふと故郷を懐う念が湧くのではなかったかと推察したからだった。ご本人はどうなんだろう。
△昭和十一年にA4二ツ折四頁もの第一号から第五号まで出したが、雑誌という本式の型になったのは昭和十二年一月で、それが創刊。その年の八月号に須坂の版画家小林朝治さんが松本七夕雛の二度摺で表紙に登場する。
△昭和十三年は同じ朝治さんの松本張子の虎、松本七夕奴提灯とつづき、十四年は松本押絵雛、古型牛伏寺厄除牛、昭和十五年は松山の前田五健さんが信州情緒の題でやはり版画がお目見え、八月号に版画家関野準一郎さんが子守を制作していただいた。戦争が激しくなり、ついに廃刊を命ぜられ、十月号で「川柳しなの」は姿を消す。それでも昭和十三年二月号から始まった「蔵書集紹介」の特輯は、廃刊の十月号で二十六を数えて息が長かった。