六月

△梅雨の晴れ間になつてくれれば有難いがなと案じていた空は、からりっとあかるく、先ず雨の心配がないので、松本駅に勇んだ。誘い合わせたように、明科駅への乗車を待つ同志の顔が集まって来て賑やかだ。
△明科鱒釣り吟行会というわけで地元の竹内伊佐緒さんの肝入りにすべてをオンブした恰好で行くのである。明科への吟行会はこれで三回だが、第一回は今度と同じように家族同伴というふれこみだったから、みんな子供たちを連れて行ったことが思い出され、私たちが苦吟している間を田舎の風物に戯れて、川の流ればかり見ていた子供が、どうした拍子か目を廻してしまい、みんなで介抱してあげた。すっかりまた元気になって、はしゃいでくれたっけ。子供はいいな。
△今度はどうかというと、その子供たちはみんな大きくなって、あのとき来た女の子が嫁にいって、つい最近子供を生みに来たという。私らもやっぱり齢をとったよと、顔を見合わせて笑った。あたりを眺めると、孫を連れての家族同伴で、あの頃フサフサした髪の毛はやや薄れ、初夏の陽射しにやや抵抗を感じていることを、みんなは口に出さなかった。私もその一人だが、でもなごやかにコース毎の席題に句を生んでいった。
△地元の俳人たちが参加してくれ一緒になって吟行をたのしんだ。俳句と川柳はどう違うのかと、肌で噛み分けようとする意欲が頼もしく、その理解への交流が嬉しかった。率先、話しかけたり、席を譲り合ったり、そんな些細なこと応待のなかで、俳句と川柳の場を保とうとする振り分けを確かめた。
△披講が終って懇親会を開いたが鱒料理をつつきながら盃が交わされ、同席の俳人との親睦の応酬がつづく。話題に富んだ吟行会だったとつぶやいてくれた。
△帰宅して夕食間際、孫たちからプレゼントされた。きょうは父の日で、ふたつに折った有り合わせの紙を開くと、おじいちゃんへ、むだづかいしませんと書き、別の手で画があった。丹念にくるんだ包物を解くと益子焼の飯茶碗が出て来た。くたびれた茶碗への思いやりか。