五月

狂言を楽しむ会が人間国宝野村万蔵氏を招いて、五月二十五日に松本市厚生文化会館で開かれるということを聞き、早速肝入りの知人の与曽井湧司さんに入場券を交付して貰うよう申し入れた。
△この公演が実現したのは、東京で医師をしている与曽井さんの娘むこが野村さんの健康管理をしており、また終戦直後、松本市で公演したことが縁で、久し振りに狂言が観られることになったという。そう言えば旧制松本高校の講堂で公演があったとき、文化祭の一環として文科の学生から入場券を求めて出掛けた思い出を持つ。私には狂言を観るのはこれが初めてではなかったが、野村万蔵という有名な方々による公演に接するのは初見であった。
△「伯母が酒」で、したたか者が伯母をたぶらかして酒をきこしめす風態が演じられた。片膝をつきながら大盃をあほる様子が、まことに小憎らしくまた滑稽味をあらわしていた。公演中にパッと停電してしまった。しかし少しも驚かず、出演者は闇の中で朗々とセリフを聞かせてくれた。
△今度の公演の解説は旧制松本高校教授で、いまは武蔵野女子大教授の古川久さんである。旧知だから、また逢えることが楽しみだった。やはり嘗ての公演のときに「伯母が酒」のほか「武悪」にも解説をしたことがよみがえる。
△古川さんは松本におられた頃、私が家蔵している武井武雄豆本前川千帆豆本などをご覧になりによく訪問して下さった。掌に乗せて、ほんとうに愛書家らしく手厚いいたわりの様子を示された。その古川さんが松本に見える。出しものは荻大名、蝸牛、二人袴だ。
△だが残念なことにこの夜の公演に行けなくなってしまった。町内に住んでいる高木杲吉君が、長野県庁の住宅部長を辞して松本市役所の助役に推挙され、その歓迎激励会と重なったからである。
△翌朝、古川さんは訪ねて来て下さった。嬉しかった。不参のお詫びを私は伝えた。お世話して印刷してあげた鳥羽とほるさん(俳人山口青邨氏高弟)の随想集「花林檎」を差し上げた。書物ならいくら重くても苦にはならないよとおっしゃって鞄に入れた。ここでまた私は嬉しかった。