一月

俳人とのかかわり合いといえば川柳を初めた頃、何かと実際に俳句を作って、川柳と俳句の違いをじかにたしかめたいという機会を得たことから始まった。まず俳句を作ると、それが東京の選者に廻り、連記の作品から選ばれた稿が戻ったときに句会が開かれ、そこでみんな集って発表を披いた。
△選ばれた句を見て、俳句はこうなのだと自分に言い聞かせ、その夜の句会で雑談し合いながら、俳句の匂いを体得していった。まだ一面、早替りして川柳家にかえって、川柳を作りそして投句した。
△両刀使いという器用のよさに昂ぶることでもなかったし、また深刻がるわけでもなかった。俳人たちはこぞって仲よくしてくれ、私が川柳家であることで何ら風当りはなかった。対等に交際でつながり、吟行今に参加、また個人的な指導や助言がもたらされた。すごくたのしく、、句を案ずるものの意欲を燃やしたものである。
△そのときの肝入りをしてくれた細田高夷さんが、昨年松本市芸術賞を授与されたという祝賀と、藤岡筑邨さんが「信濃路の俳人たち」という大冊を公にした出版記念会とを兼ねての集りに招かれた。快く出席したというのも、往年の旧知の俳人たちと逢うことが、またもうひとつの目的でもあった。
△私はふりかえって、四十五年ほど前に、川柳にありながら俳句の広場をのぞき見する私という若者を異端視しないで、心おきなく容れてくれた俳人たちに感謝したい気持を、頼まれた祝辞のなかで先ず加えた。みんな禿げあがったね、入歯だなと思いながらも、それぞれ道は違うが、精出しているな、息災だなとなつかしがった。
△私の俳句の習練は一、二年だったが、私らしい体験で、また摑むものを得た自信を抱かせたことはほんとうだった。ここでひらきなおって、俺が俳句と川柳との違いを一番知っているんだなどとは思わない。いま俳句をやらせても抜群だなともうぬぼれはしない。俳句はうまくなかったし、また川柳も同じであることは御覧の通りで、それがいつとなく何となく過ぎて。。
さわやかで、くたびれを知らない若い日の想い出は大切だと今つぶやく。