十二月

△気に入らないと、寝そべって、あたりかまわず書きなぐっている。初めの頃はきまった大きさの、それも色上質の紙でないと、なかなか応じなかったが、いまは広告の紙以外はどんなに小さくとも、大きくとも書く。
△小さいのは小さいなりに、人物も小じんまりし、大きいのは登場人物の配置を考えるらしく、ちょっと首をかしげて、画ごころがきまったとなると、矢早に書きこなす。
△面白い画だなあだけで、傑出した作品だとは思わない。孫を賞めるしきたりに荷担しない。何を孫びいきしているんだと、からかう人があればその通りだと思うし、こんなのがうまいもんか、これだけのもの、どこの家の孫だって書くし、もっと奇抜な、もっとねらいをあやまらぬ画が書けるということを知っていても、自分の孫だというそのつながりで、面白い画だなあとうなずくのである。
△四歳とちょっと、幼稚園に行っているが、柄はあまり大きい方ではない。近所にガッチリした子供がいて、これが毎朝呼びに来る。二百米ばかりの近い幼稚園だが、まだまだあぶなく、交通地獄を考えて、お互い同志のお母さんが随いて行く。仲よく手を握り、何かおしゃべりをして楽しそうだ。
△喧嘩っ早いのか、よくつかみ合いをすることがある。顔のあちこちに傷あと、それもちっちゃな爪痕である。朝伴れだってゆくすごく逞しい男の子とやったらしい。すぐ仲よくなるが、けしかけるつもりはないのに、俺、こんど泣かしてやったと得意顔の日もある。
△押しつまった年の暮れ、キリスト教会の幼稚園だから、大人もはしゃぐあのクリスマスの学芸会みたいな劇のなかで、どう選ばれたのか、うちの孫がイエス様に祭り上げられた。どういう風の吹き廻しか、私たちはみんなけげんな顔を見せ合った。
△あのいたずらな、飯より画の方に朝の目覚めを感じるヤンチャがどうして主役になったのかと話しこむ。ほかのキャストはみんな一口二口喋る役なのに、うちの孫はいでたちよく、ただ黙って敬虔そうな顔をして、みんなを見おろしている時間を持ちこたえた。