四月

△遠いところは至極このままで見られるので便宜だが、新聞や雑誌など近くで見るものに不便を感じて何年か経った。眼鏡を耳にかけたまま、額の方へずり上げて引き寄せる。老眼鏡をかけないで、こうした工夫でまだ見えるのが嬉しい。おでこに眼鏡の跡がつく。
△挿し歯とか、素人療法でセメンダインをくっつけたりして、欠けた歯の補給をしているうちに、滅びるものはやっぱりいつの間にか消えてゆく筈で、口のなかは、ない歯が生き残ったさびしさをかこちがちになった。
△人のことだから、お前さん早く入歯にした方がよいじゃあないですかと、さしでがましいことは誰も言わないものだ。言われても、この人はニヤニヤするに違いないとわかっているからだろう。
△口をつぐんだまま、笑うようにしていたのが、自分が見えないものだから、兎角口を開けて笑いたがるようになり、ツベコベ他人が言わないことをいい風にとって、歯の治療に行かないで、これまた何年か経った。
△目は眼鏡歯は入歯にて間に合えどと、何やらひやかされたような句が、ちょいちょい思い浮かべることになって、自分がみじめで、あわれでもあった。そんな気分早く治せばそれだけ早くなくなるものを、惜しんだ顔つきで口のなかをもぐもぐして暮して来た。
△大勢の前で話すときとか、何か祝辞を頼まれる段になると、どうも年甲斐もなく恥かしい思いにすべりこんで、夜、横になって頭にひっかかるのはまず入歯だと自分を叱りつけることに決めた。なんとまあちっぽけな決意だなあ。
△近所に歯医者があるので、いつ抜いてくれるか、こちらでヒヤヒヤ打診した恰好で出掛けたら、思い立ったが吉日だ、お前さんはまた引き延ばしでも考えているだろうが、明日といっても先ず明日は来ない性分だから、いますぐ抜くぞと驚かされ、口をアングリ開けてオドオドした。
△こちらで思い余したほどもなく何だ、こんなことならもっと早くと今更強気を見せたところで誰も本気にするものとてなく、一ヶ月ほどして入歯が出来た。デカイ異体を入れられ、またまごまご