六月

△いつも仕舞う時間になるので、シャッターを締めようと思ったが、二人の客が奥の方の「道草」から立ち去ろうとしないで、腰掛に坐って所在なくいるという。気を利かせて閉店のしおに乗ってくれそうなものだと、こっちは考えてみる。時間が時間だから、そこは心得てくれるだろう。ひとつ当って見るか、ノコノコ私が出掛けて様子をうかがうことにした。
△「百趣」の店を開いて三ヶ月、日は浅く、何かと客種をつかもうとしてはいる。だから奥の方にくつろぎの部屋をこしらえ、話したり、相談に乗ったり、いろいろ話題をひろげる部屋をこしらえた。気分をわるくしてはいけなぬので、そっとのぞくような恰好をして二人に近付く。
△登山姿である。岡山から来たという。一人はベテラン、一人は素人で、ここ数日の登山のことを話してくれる。先輩はさすがだと賞められると、そのひとはただうなずくだけで多くは語らない。すごく山好きで始終信州へ来ている人らしい。
△素人の方はこっちが始めて。岡山大学といえば、大森風来子さんのいることを思い出して、この人に聞いて見たが知らない、そんな筈はない、どうしたことだろう、そんなら美禰という先生を知っていますかと聞くと、ええ知っておりますと答えた。
△美禰君は小学校五年のとき、転校して来てその後松本中学校へ入学、ずっと同級生であった。秀才のほまれ高く、四年のとき一高へパス、大学とつづき、いま岡大にいることを聞き、先だって久し振りに通信したところだ。
△今度は私の方が機嫌よくなり、時間のことをつい忘れ、家族の待ちあぐねていることさえ消えてゆくのがおかしい。
△東大にいた熊谷寛夫君のことを話したら、いやよく知っていますという。これも中学の同級生だから一層膝を乗り出す。この素人は理科系統の人だな。美禰君が松本にいた家はすぐ近くだからと案内役に廻り、岡山のこの二人を連れてゆく始末。「百趣」からは何も買わなかったけれど、話がたのしくいつの間にか連れ出したから私の役目はすんだかたち。