一月

◆たのしかった日々、そんな思い出をそっと抱きながら、別れるときが来た。かぞえて見ると、この借り住まいに移ったのが五月、なんと八ヶ月である。
◆陽春五月、ぽかぽかと暖いまことに移りいい日を選んだような気がしてならぬ。炎熱の夏はさすがに凌ぎにくかったけれど、ここ信州では夕方になると、どこでも涼風が吹いて来て、たまらなくああ信州の夏だなとうれしいのだ。
◆食用蛙が近くの堀にいて、夜中に鳴きかわし、少しうるさいなと思う頃、ついうとうととして眠って行くのだったが、ごく堀の先にある家では、とても我慢がならず夜中を期して、その堀の崖を降りて行って、食用蛙の鳴き声を収めようとしたらしい。そのときはピタリと止むが、手出しをせぬのをいいことに、またゾロ鳴き出すのだった。
◆秋の虫がいい声で鳴くようになると、近所の子供たちが虫籠を持ってさがしに来たし、そぞろ世の中のあわれについほだされたかたちで、しんみり聞き耳を立てたものだった。美しい秋の雲、それが初秋から晩秋まで、うつろう動きを見定めるように、寝起きの床を訪れてくれた。
◆ほんとうにさむざむとした部屋になってゆくのだと感じたとき冬がのっそりとやって来たことに気付き、早く元の家に戻らねばならないことがせかれた。戸の締め立てがうまくゆかず、あちこち隙間だらけで、そこからしのびよる風が気安く膚をさすのだった。
◆ビルが何とと住居の方だけ整理できる話だったので、日のよいときを見はからって、いよいよ移ることにした。
◆先ず十二月二十七日は親戚の者に頼んで、トラックで何やかやを運んでもらった。乾ききれない新しい部屋のなかに、ダンボールに入れた家財道具がいくつも腰をおちつけた。三十日、押しつまったこの日、みんなそれぞれ近所に別れの言葉を掛けながら、さっぱりと想いの尽きぬ心を撫でて、ほんのそこらといわんばかりに、最後の荷をまとめていそいそと帰ってゆくのであった。やっとお年取りに間に合って無精ヒゲに触れる。