七月

△暑い日盛りである。道路に面した道路は東西にあって風通しが少しよい。事務所はその奥にあり、私はいつもここにいる。ときどき通路に出、外を眺める振りをして風にあたるのだった。ふっと外を通る人があり、その人が私を見た知った顔だなと思った。
△すかさずその人は私の方に近付き、なつかしそうに声をかける。「やあ松田文人君だね」向うも自分の姓を呼びかけられたことで親近感を一層覚えたらしく笑顔を見せるのだった。仙台にいることを何かで知っていたので、教育委員会にお勤めかねと聞いた。
△「いや、こんなところにくすぶっているよ」名刺を出したので肩書がわかった。宮城県工業高校兼第二工業高校の校長である。校長さまかと私は見やった。キリッとした服装でもなく、何だかズタ袋を背負い込むようにした恰好で、ブッキラボーなのである。
△こんな気さくな応待で、ひとりの信州人が仙台市に踊りまわっていることが愉快である。松田君は私の弟と旧松本高等学校が同じだった。文科乙、出身も旧松本中学で、弟は四年から高校へ入った。だから松田君より一つか二つ若いが、弟も生きていたらこんな年頃か、また見やった。
△弟は二十六才の若さでこの世を去った。薄命であった。中学は一年から四年まで皆勤だったのに、高校へ入って盲腸炎に罹り、卒業してやや病弱な身辺に変って行ったのが惜しまれた。自分の生命がもう絶えることを知っていて、初めの法科希望を忘れ、今度もし生まれ変ることが出来たら、医者になって病人を助けたいと私に病床で話した。なにを言うんだ、早く元気になってくれ。あとで私は涙ぐんだ。昭和十七年二月七日に弟の姿は消えた。
 冷たき灯片言隻句われに残し
△松田君はそのとき弟のことにも触れた。そしてまた仙台の炉ばたの主人が松本へ帰ったらよろしくと伝言があったという。天江富弥さんである。うれしいなあと思い焼けたが復興した民具類のなかでふたりが語らっている様子が目に見えるようで、そして中年になった弟のおもかげを描きながら、また自分の齢に気づくのである。