四月

△そこのところははしょってね、とすかさず五才になった孫はいうのである。夕飯がすんで、何だかトロトロとして来て眠くなった孫が、私を誘いこむように、一しょに寝ようと言い出す。ハイハイ、一つ返事で床を敷くと、孫も手伝ってくれる。いとしいものだ。
△今夜は二階にしよう。窓から星が見える。横になって、やっと自分に返った風な恰好で、長々と足を伸ばす。すると昔ばなしをせがむのである。いくども聞かすはなしだから、いつの間にか覚えてくれる。話し上手だなんて得意がることもないが、フンフンと聞いているうちに、これが子守唄に変ってゆくものらしいのである。
△そこのところははしょってね、という申入れは、むかしむかしあるところにいうくだりは、もう気をきかせて省略したって野暮じゃあないわよと女らしく言いたいのだろう。ちょっと腰を折られて、うすぼんやりした暗闇で、年甲斐もなくふにゃけた恥じらいで自ずとにじむのである。
△そこはちがうよ、こうだよと、さしでがましい言葉が入る。まだ眼が冴えているのである。流れるように説くように、昔ばなしの筋が孫のイメージ通りにならないうちは眠気を催さないのだ。きた、きた、そこだよと言う風にうまく話が乗ってくると、ニヤニヤと心おどらせながら佳境に入るものと思う。
△床の間に毎月代えて掛ける軸ものは、川柳もあれば、画も拓本もあるが、いま孫といる部屋には志功さんにお願いして書いていただいた子供の絵が掛かっている。いつだったか今度は三人の子供がいるから、子供の画も書いて下さるようにお願いした。四つの顔がぐるりとうまくはまり、「天心妙韻」の語が添えられている。その三人の子供もそれぞれ世帯を持つようになり、顔もからだも違ってきたけれど、この絵の子供はちっとも前と違わない。天心妙韻そのものである。
△そしていま孫も見守ってくれる。子供に聞かせた昔ばなしをまことしやかに孫に語り継ぐ時の流れのおかしさが胸を洗うのである。尽きない情趣を何としよう。片言の幼語から成人の言葉にうつりゆく人生の道はかけがえのないものだと思う。画は福々しくにこやかだ。