九月

▽三十分経つと小刻みに時を打つ時計がせっせと励んでいる。こちらも張り切らなければならないわけで、ふっと目覚める頃合いに起きて、時計の針の指し向きを見ると、自分の思った通りの時刻なので、齢を取ったものだなとひとりうなずき、父が誰よりも早く目覚めて、朝のラジオのスイッチをひねり、時の動きを聞かせてくれたことがよみがえる。
▽私の母は父よりも早くこの世を去った。いい父であったし、またいい母であったから、この齢にしてだんだん母と父の齢に近づくにつれ、思い出をたぐらせては、妙に想いにしずむことがあるのである。しんみりと目をつぶって、よしなきことのくさぐさが通り過ぎてゆくと、それをあれよあれよと追い求めるようにして追っても見る。
▽母は百人一首をそらんじていたように思えた。幼き日の思い出として、私はそれを大事にした。私がうたらしい手なぐさみが出来るようになったとき殊更な知ったか振りを母は見せなかった。しょんぼりとひとりつぶやく神経が兎角頭を刺戟したらしく、そんな明け暮れであったことが私にはさびしい。でも悲しい嫌悪を覚えることなしに、ずるずると或る日がさりげなく続いていった。
▽母に先き立たれた父は、孤独の境涯をおくびにも出さず、ガムシヤラに働いた。積極的に世に抗した。負けじ魂が中老をかきたてたことになる。晩酌をたのしみにした。私もお相伴にあずかるには相当の期間と忍耐が必要だった。父は夜中に目覚めると、また酒をあたためた。小さな電気コンロを求めて来て、フラスコのような燗徳利をそのうえに置いた。シーンとした静けさのなかで、この徳利はコトコトと音を立てた。ひとりぼっちだな、寄り添う手もないのだな、そう父は思ったのだろう。そしてチビリチビリ酒を盃のなかにそそいで飲んだ。酔うための酒であることをたしかめて、酒のうまさがからだをなめ廻した。
▽そして暗闇にまぎれ、酔いの甘さに抱かれていった。かなしい身の置きどころであった。私は陽気になれないので、きめられた晩酌の量をたしなめているが、父の老境の静けさがなつかしい。