八月

▽ここに生きているのは何だろうかとひねって考えたことはない。生きる世界のなかの自分はどうなんだろうともむずかしく思ったことはない。たしかにここに生きているのは自分なのだくらいに気がつくだけである。生まされたのだこんなところにひょんな恰好で出なければならないなんて、生ます奴も生ます奴だと、すねた気持は毛頭ない。
▽旧盆だから八月十三日にはお墓参りに出掛ける。すっかりお墓の掃除がすんでいる。お松を近くの店で買って赴くのであるが、私の小さかった頃は、十三日は朝早くから「お松はいらんかね」と言って、お松をいくつも背負ったおじさんやおばさんが呼び声を町中にはやしたてたものだった。その呼び声を聞くと、お盆だな、とうとうお盆がやって来たなと、あたりを見回したりした。
▽蓋のない薬鑵を持ってゆく。アルミニューム製のものが手頃だ。少しくたびれたのが幅を利かす。お墓近くにコンコンと湧く手洗い水のなかにころがして水をたっぷり入れて揚げる。こぼさないようにしてゆくのである。
▽お松を供え、お線香をくゆらしカンバを焚いて、きまったようなこの匂いのなかで合掌すると、何となく対話したり、対面したりした気持にさそわれる。俺もいつかこの墓のなかに入るのだなと、しめっぽい考えはふっと頭をかすめるだけで、すぐに忘れる。蓋のない薬鑵の水をお墓の頭から次第に脇に隈なく掛けてゆく。御霊が目を覚まし「ようこそ」と言ってくれるようだ。
▽十六日にはまたお墓参りをする習慣で、霊前に供えた果物やお菓子をお墓に持ってゆく。それを献げてしばらくすると、お墓参りの者たちが拝んでから、いただくことにする。おすそわけをして貰い一しょにご相伴にあずかるのである。
▽墓域の片隅に愛犬のおくつきがある。ごろりつとした石が墓銘のないままに起っていて、生きていた頃よく呼んだ「チビ」「ポチ」の名がよみがえり、けもののいのちのやすらいに目をつぶり、いま生きている人間の自分との記憶の掛り合いを大事がるのだ。