六月

▽下手な字でも個性がにじみ出ているものがいいんだと自分に言い聞かせて、頼まれると臆面もなく揮毫してやる。揮毫なんて仰々しく考えるつもりは毛頭なく、支那の名墨で露さらないことを知っていて、筆もなるべく禿びたのでたどたどしく書くのである。
▽いつだったか、知人を介して暖簾にするからといって来て書いたことがある。自分でも気に入った短かい言葉、ちょっとした絵を入れたものが出来上がったが、忘れた頃に、染めあがりましたから是非披露祝いに来てくれとの達しでのこのこ出掛けた。
▽頭を少し下げるようにして、その暖簾をくぐって招じ入れられた一室に、御主人と一献を傾けたではよかったが、ここはたしかにダブルを目的にした昼飯わかたぬ休憩の斡旋所と気がつき、えらいところにうっかり便乗してしまったと悔やんだが、あとの祭り。行を共にした二人の眸に、少しでも味がわかってくれる私の短かい言葉と絵であって欲しいと思ってあきらめるのである。
▽部厚い表札を持って来た。名前を書いてくれという。何となくそうかなあと考え、頭をかきかき承諾すると、こういう姓と名だと言って置いていった。忙しさにまぎれてまだ書いてないが、先方は忘れてしまったのか、気にもとめないらしく取りにまだ来ない。或いは新居が落成しないせいかも知れないと思うと、これはうかうか下手な字を書くことは出来ないぞと、こわごわ白木の表札を見やる。
▽そんなとき、いい手本を眺めるには蒐めた色紙が手頃なので、ちょいちょい掛けて替えて鑑賞することにしている。若いとき実に無礼千万なお願いをして揮毫していただいた幾枚かの色紙が、キチンと割に深い箱のなかに入れてある。いま掛けてあるのは
  まち人の眼に
    蝙蝠が引かへし   南北
 蝙蝠は絵が書いてあるのでそう読ませるのだが、字も絵も乙に枯れてうまい。箱から出してどれを選ばうかと思っていたら、孫が出て来てアタイ選ぶという。なかから選んだのが河童の絵に句を書いた私の色紙であることで喜んだ。稚拙が幼児にうまが会ったのだ。