二月

▽頼まれ仕事があって、夕方汽車に乗って出掛ける。いそがしい身分なのに、この日程は狂わない。汽車の中で見馴れた外の風景なので、ちょいと御免よと目をそらし、ゆうべ読み残した伝記ものに喰い入ったりする。またこんなときとばかり、依頼されている選句を手早くまとめ上げる。
▽駅近くにホテルがある。いつも泊っているので話が早い。フロントでは顔を見た途端、私の名前を言い、お待ちしていましたと、鍵を渡してくれるのである。この老いしょぼれた顔は稀少価値があると思えて覚え易いものか。でも言わせて貰おう。こちとらも実は覚えがいいのだよ。
▽年賀状を印刷する一年に一回だけの注文のお客の顔を見届けて、おや、お元気ですか、またお会いしましたねと、ペラペラと早口でまくしたてる淀川長治のせりふみたいに、私もちょっぴり言わせてほしいのである。よく覚えていたことになる。また今年よく生きていたねとまでは言わないが、一年一回のお得意様はお雛様のようにまた七夕様のようになつかしい逢瀬である筈だ。
▽食事も宿泊代も先方持だから、何でも食ってやれと、一番上等な一番高い料理をこしらえて貰って食べ始めたら全く参った。とても食べ尽くすものではないとしょげていくら喰らい抜けの信濃者でも、齢と胃袋にはかなわないものだと殊勝に納得したのである。でも食い気で納得したあたり、やっぱり信濃者の貫禄充分だね。
▽始めは一人だからシングルベッドという正当なルームをあてがわれたが、たび重なるとホテルの方でも顔見知りで気安くなったりしたつもりで、ダブルベッドに押し込まれたりする。とてつもなく長い枕で、ひとりわびしくも幻を抱いて寝てしまうが。
▽駅を降りるとすぐ駅売店で小さな酒瓶とゆで卵二個を買う。原稿を書き終えて風呂に入浴してからのたのしみにするのである。始めてのときは冷やでチビリチビリやったが、洗面所のホットの方をひねり、チョロチョロ出してあたためて置けば、ほどよいお燗が出来るよと伜が教えてくれた。酒通の子供を持って幸せだね。