一月

▽あわただしい一日がつづくのである。目まぐるしく、これでもかと押しまくるようである。いまいましいことでムツとしたくなったり、ヘマをまたくりかえすことでいやに悔んだりして、おちつかないときもある。でもいつのまにかうち忘れて、あきらめたほどの納得にわが胸うちを撫でてやる。
▽仕事の都合で早く夕飯を始めたということは滅多にない。人並より遅れ、おやまだですかと来訪者が驚いて恐縮することが屡々である。あまり早くてはしっくりしないという人種になってしまったらしい。
▽それでも無事みんな顔を合わせる。一人が缺けたことはまず殆どない。これは不思議である。打ち揃うのである。横着者がいて外食にいったり、酒をほかでわざわざたしなむそんな殊勝なレジャー心はわが家にはない。全く意気地なしというものだろうか。
▽ほろほろといい気持になった頃を見はからって、孫は「おじいちゃん寝ようよ」と肩にまつわる。可愛いものである。「アイよ」一つ返事でノコノコとわが部屋にゆき、孫と一しょに蒲団を敷く。まず自分の、それから家内の。
▽一枚敷くと孫はそこへころがって喜ぶ。次のを敷こうとしてもなかなかのかない。困る。仕方がないので、ころがっている上に静かにもう一枚を掛けてやる。それをまた喜ぶのである。
▽どうにか自分のを敷いて、それから家内のにとりかかる。一枚敷いてそのうえに毛布をかける。その毛布に穴があいている。孫はすかさず「穴があった穴があった」と大発見したように叫んで笑うのである。皮肉でいっているのではなく、面白く感じてそういうのだから、無邪気というものはこれだナといつも胸をうたれる。
▽陽春の頃には何としても久し振りに自分の句集「山彦」を出版しようと張り切っているが、その扉絵に中川紀元画伯の私の肖像を入れようと思って、軸になっているその掛け物を床の間に掛けて、しばらく眺めているうち、これは今月の掛け軸にしようやと掛けておくと、孫はこれに気付き「おじいちゃんがいるよ」とお客様ごとにその部屋へ連れて行って見せる。