九、十月

▽いくつかの川柳雑誌が発行されて、みんな熱心な意気込みであることが頼もしい。句会報にとどまっているのもあり、それがそれで同志の結びつけに役立つとすれば満足なのだろう。小人数であるだけにそうした傾向は否みきれないのである。
▽いつも企画を忘れずにチームワークのとれた編集に意を注ぐのもある。テーマを追い求めて、この道を拓くべく意気揚々、斯界をリードしてゆきたいのだ。自分を押し出しすぎて、きざっぽく思われる点が惜しい。またそうしたタイプが歓迎される時代とすれば、ただ黙って傍観してしまう年齢的なギャップを感じたりする。
▽小さな世界だが、県民性というものも加味されて考える必要がありそうだ。からりっと明るい性格だと、作品もおのずから淡白なものがあらわれるし、理窟っぽい性格だと、作品も自然と堅くなる。作品以前のそのひとの行動や言説が、県民性というものに支配されることもあり得る。
▽作品の傾向にはいろいろある。動機や抱負によってよそ目からすれば歯がゆいと思っても、抜けきれないとあれば、その道を往くよりしかたがないのだ。人生感を充実する手だてに、この十七音律を選んだとしても、詩歌のうえでやはりスタイルのなめらかさを大切にしたいものである。
▽社交性なんてものは必要でないとこちらで思っていても、なんて無感覚なひとだろうと邪推されたりしていることがある。お高くとまるつもりがなくても、そのようにいつも見られたのではさびしいにちがいない。
▽話しいいひとがある。ザックバランなのである。こころから相許すというのではない。そういうひとはなかなか得難いものだが、まあ話しいいひとを見つけたら、どんなに強い味方になることだろう
▽とにかく睦み合う、それでいいと思う。何かを依頼されたら、支障のない限り快諾することだ。だが含むところがあり、考えるところがあればことわってもいい。そこを知って貰うまでに時がかかるのが面倒である。自分でなくて、この道のためだ。逸ることがあってもまず自分を矯めたい。