八月

▽工場を別に新しく建てて、郊外かなんかからそこへ毎日通う身分でも。細長い敷地、強制疎開終戦一ヶ月前にぶつこわされた跡にバラツク建て。工場が主で寝るだけの狭い住家、だんだん継ぎ足して体裁をつくつていたまではよかつたが、近代化のスローガンが押せ押せで、小さいながらも工場設備に浸食されて、畳がはがれそこへ機械が据えつけられてゆく始末。
▽いきおい、移動開始で、ねぐらの位置も変つてゆく。お勝手が動き出す。床前がのつぺらぼうになりさがつて、電気時計が工場内を睥睨することになる。
▽もとあつたお勝手の水道が工場の新しい機構にすぐに一役買うべく流され、ストーブの煙突があちこちに伸びてゆく。仕事に追われ、日曜日も休日も与えられないような、おちつかない日が続く。
▽人並に休養して菊の香りにひたつていればよさそうなものを、何かと片付けねばならない雑事が追つてくる。街の騒音のなかに遊楽の人波がざわめくのに、カーテンを引いて、こちらはせつせと動き廻つている。
▽犬はいいなあと思うことがあるが、小屋にうずくまつて、陽当りのよいままにうすら眠りの出来る身分がうらやましくなつたりしてこせこせと自分から仕事をこしらえていることのはしたなさをつい忘れ、けだものの無為な一日の退屈さに心を引かれもする。
▽強制疎開のときに土蔵はこわさないでいいというお達しで、この方はむきずだつたが、迷彩をほどこすために白壁に黄色いうすよごれた化粧が今ではきたなくなり、信州たる風情がそがれている。
▽その土蔵のなかに寝にゆく。家族のものと一しよに語り合つたあと、時間になると眠くなるから、ひとりぼそぼそと茶の間を去つて脱け出す。石井柏亭知多半島、宮坂勝の埠頭、中村善策のせせらぎ、小林邦報の柿、木村辰彦の安曇野がぐるりと私を待つている。「わが枕まちがひもなくそれで寝る」と清水米花の短冊が語りかけてくれる。
▽くらいなかで静かに思うことの拙なさがひろがる。いつまでも要領のわるさなのだろう。