七月

新潟県の出身であるけれど、山ノ内町湯田中に若くして医業を起し、地元の者に慈父のごとく親われ、誰にも笑顔を持つて接してくれた中島紫痴郎さんがこの六月の終り三十日に逝くなつた。八十七才である。
▽長野県川柳大会には毎回出席せられ、川柳の野郎どもをあの特有な大声で叱咤しては満場をうならせた。マイクそつちのけで或いは笑わせ、或いはシーンとさせ、熱情あふれる獅子吼は何と私たちを鼓舞してくれたことだろうか。それをいま思うのである。
▽逝くなる二週間ほど前に私は中野市の病院にお見舞いしたが、附添の方は奥さんがお宅の方で逝くなつたことを先生は知らないからそれに触れないようにと、心遣いをしなさつた。ほんとうにおいたわしいことだと、じつと紫痴郎さんを見つめた。何も言わずに朝食をあてがつて貰つていた紫痴郎さんとの対面がこれで最後となつたのだつた。
▽メロンが大変お好きだということを聞いた。生ま水を呑むなといつて、どんなに喉が乾いていても水を呑まずお茶を口にされた。また眠ることが上手だつた。尤も往診でテクテク遠くまで歩き夜遅くなるときがしばしばだつたから歩きながら眠ることが出来ると、みんなに話してくれた。ものにこだわならい性だつた。いやなことはすぐ忘れた。
▽狂句百年の堕眠を破るように阪井久良伎、井上剣花坊が立ちあがつた明治三十六年頃の警鐘は見事であつた。三十八年に久良伎は雑誌「五月鯉」剣花坊は「川柳」を創刊して新川柳を普及した。
▽この二人の句風にあきたらず、なおそのうえに新しい息吹きをもたらすべく、森井荷十らと創刊したのが「矢車」であつた。明治四十二年である。まことに新風そのものだつた。中島紫痴郎さんはそういう人である。
▽長野県に来てから昭和七年七月に「湯の村」を創刊した。金井有為郎君の編集も冴えに冴え、A6判、評判もよかつた。昭和十五年六月号までつづいた。近世川柳史を書くひとには見のがせぬ資料であろう。紫痴郎さんの功績は大きい。人物も大きかつた。