十月

▽土蔵の入口に犬の小屋がある。南向きで、そこに鎖につながれた愛犬がうずくまつている。大抵、くるりと自分のからだを巻くようにしてまるく抱えた恰好である。ときどき出て来て、身ぶるいをする。払いのけたいものがあるせいだろうし、退屈をまぎらわす気分転換かも知れない。
▽心の傷をいやす風なかばい方でしよんぼりしているのを見ると、こつちもやんわり伝わつて来て、しよんぼりしてしまうことがたまたまあるのである。それはどうしてなのだろうかと、自分でもいぶかる。犬がげんなりしていたつてそれにかかわる必要がないのに、生きもの憐れさがふつと胸につかえるせいだろう。そうした気弱なおのれの心持が不憫である。
▽ほんとうに長い間、飼つて来たものだ。小さいときは育ててやる可愛がりようだつたけれど、だんだん大きくなつてからは、まさしく飼つてやる慣習が身についた。またそういう飼いかたにしてしまうご時世がわびしい。
▽鎖につながれる馴致に身をゆだねた明け暮れが、あまりにも所在なく思われ、夕飯がすんだ小時間を散歩に出してやることでせめてもの運動になり、同時に解放感を与えてやることに一致すると考えている。
▽いま飼つている犬は従順で、やさしいのが取得だ。芸を今更繰返すことを強いないでいる。いつでも一匹は飼つて来た。恐ろしいほど気性のたかぶつた犬も飼つた。とても手に負えない犬だつた。しばしば近所の子供に噛みつくという評判がたつて、遠い所に捨てに行つたが、一週間ほどしたら帰つて来た。これには驚いた。
▽しかしその犬も人の口に入つてしまつた。それほど生かしておけなかつたからだつた。何だかその夜さびしく、みんな黙りこくつていた。翌朝、ご馳走様でしたと挨拶に来てくれてほつとするやら、呆気にとられるやらで、まごまごした。
▽いまの犬は老犬の部類に入る年齢である。でもよぼよぼしてはいない。余生を養う
つているというほどでもない。ひたすら食い、ひたすら眠るのである。偶に犬になつて見たいという物臭もある。