五月

▽雨戸が締まつており、犬がしきりに吠えているので、不審に思つた近所の人が裏口から入つたところ、長谷川春子さんはあおむけに倒れていた。そばのテーブルの上には、洋酒のビンと果物があつたという。五月七日午後のこと。
▽ひとりさびしく、誰からもみとめられず、この世から去つていつた長谷川さんの気持はどんなだつたろうと思う。
▽愛犬がしきりに吠えて、飼い主の悲しい最期を知らせたということが一層私の胸をひきしめるのである。
▽<お春さん>という愛称があつて、明るい人柄で慕われ、毒舌でも有名だつた。三上於菟吉という小説家と艶聞を天下に撒いてうならせた長谷川時雨の妹さんで、画家である。女らしい繊細さを誇る画風でなくて、濶達、竹を割つたような性格があらわれていて、私は好きだつた。
尾崎士郎の「空想部落」の挿絵で画壇に登場、その「空想部落」の舞台だつた大田区馬込のお宅に長谷川さんを訪ねたのは、もう十数年前にもなろうか。錠が締まつていて、呼鈴を鳴らすと、まもなく出て来られ、誰であるかすぐわかつてくれ、「ようこそ」と快く挨拶してくれた。
▽紹介する人があり、是非私に会つて御礼を申したいと長谷川さんはおつしやつておられる、上京したら都合をつけて会つてくれないかと、その人からたびたびおたよりをいただいたのである。
▽東京のある新聞社の記者と仲よくなり、私が信州人であることから、長谷川さんが信州を舞台にした小説の挿絵を担当、その資料に「善光寺道名所図会」があつたらという話で、私は大切にしていた本だつたが、達つてのお願いなので早速送つてあげたのである。
▽すぐその話が出、私よりさきに信州の話がいろいろ出て来て、私を面喰らわせた。よく笑い、なるほど明るい性格だなと思つた。貼りまぜの屏風を見せて、その作者のひとりひとりの想い出を語つてくれた。そのとき犬がいて私をのぞいた。そのとき犬がいて私をのぞいた。逝くなつたことを知らせた犬はその犬ではあるまいかと、長谷川さんの訃報を知つた妙にひつかかる。そのとき貰つた挿絵の画稿を大切にしている。