四月

▽おととし米寿の祝にお礼の言葉をキチンと述べて、その元気さをたたえられた伯母は健在である。白髪は年を重ねて美しく、こじんまりと坐つている。応待には如才なく、ほかの家族より率先して、茶をそそぎ、馳走をすすめる。話題はせまいが、長寿者の風格はおのずとこちらにも伝わつて来て、まことに聞きよい。
▽自分で編んだ毛糸の腰紐を列席者のみなのものに、ふんわりと包んで、そのうえ真新しいのをしをつけ、お膳のわきに添えた。奥ゆかしく、誰も珍賞することに疑いはないのである。ひとつひとつ編んでゆく辛抱強さと、貰われてゆくものへの愛着をこめて、こんなに身近なプレゼントはない。私は勿論、うちの女房にもお裾分けをしていただき、生命長かれにあやかるべく大事にしている。
▽耳が少し遠い。耳は遠いほど長生きすると下世話にある。とんでもない答えかたはしないが、トンチンカンな応答も時にある。それがご愛嬌で嬉しい。ただうなずいてやるにこしたことはない。伯母はいつそうつのつて話しかけ、間を置かせて果てはひとりで声を立てて笑うのである。
▽うちの倅が官工業に精を出していた頃、便意が起つて伯母の家の玄関にベルを押して戸の開けるのがもどかしかつたことがある。伯母ひとりの留守居で、久しく逢わなかつたうちの倅の顔に見覚えなく、下水道の泥まみれ、髭も剃らず、みすぼらしいズボンで突つ立つたので呆気にとられたらしい。
▽名前を言えばわかると思い「博男だが」と心安だてにぶつきら棒に話し掛けたら、どう勘違いしたものか、あわてて奥に引つ込んで出て来ない。倅はまさかこんなことはあるまいと考え、どうして驚いたのだろうとこちらがいぶかしがつた。
▽あとで聞いたら<博男>のヒロオを、フリヨウと聞き違えて、自ら不良と名乗るチンピラを矢早に想像して、恐怖のあまり奥に飛びこんだという始末とわかつた。
▽わが愛犬も長寿である。子供は産まなくなつたけれど、伯母のように耳は遠くない。実にさといのである。伯母に毛糸の首環所望しようと考えている。