六月

▽とじこもつてばかりいないで、たまには浩然の気を養いながら句を作ろうというわけで、年に二回ほど野外に出ることにしている。いい気候になつた春四月には、南安曇郡穂高町にある碌山美術館見学を兼ねた吟行会としやれた。
松本駅に集合して同じ客車に陣取り、車中吟「駅弁」に穂高駅までを愉しんだ。下車すると地元の同人八幡水鏡君が出迎えてくれ、吟行コースの打ち合わせをすまし選者もそれぞれきまつた。
▽松本から電車で三十分、日本アルプスを目のあたりにする。少し足を延ばせば知られた穂高わさびの栽培も見られるのである。清冽な水だけを受け入れて育つわさびのまつとうな気質は何にたとえようか。
▽吟行コースの途中で碌山美術館前で一同撮影、クリスチヤンだつた碌山にちなんで、赤煉瓦づくりの教会風の入口に並ぶ。記念館には「女の胴」「坑夫」「労働者」「デスペヤ」などの彫刻と「ニユーヨークの東河畔」「二階」などの絵画がおさめられている。
▽碌山はこの地に生まれ、「日本のロダン」といわれた彫刻家である。若き日、美術への開眼については臼井吉見氏の「安曇野」に詳しい。その頃は東穂高村矢原といつていたが、村内には、のちに東京新宿の中村屋をはじめた同地出身の相馬愛蔵や現代教育のキツカケをつけた井口喜源治らがいて、キリスト教会の禁酒運動をおこしまた町の繁栄策として芸者置屋設置には絶対反対を唱えたりした。そのため小学校を追われた井口は相馬らの協力で、新しい教育のため私塾「研成義塾」を開いた。
▽それに相馬愛蔵のところへ嫁に来た相馬黒光が碌山をして大きい目覚めをもたらした。いわゆる新しい女だつたのである。先駆的思想家といわれた松本出身の木下尚江も安曇野に往来して新しい空気がこもつていたときだけに、碌山はそうした影響を受けて上京、絵の勉強に渡米したり、渡仏したりして彫刻家としての地位を確実に築いた。明治四十三年卅二才の若さで吐血して永眠したが、その遺作は新鮮味あふれるばかりである。
▽私たちは披講したあと、とある食堂で大いに碌山を語つた。