五月

▽学校を卒えて父の業を手伝い初めた昭和三年頃は、今でも語り草になる位いの不景気の絶頂でまた治安維持法というシロモノが強くのさばり、各地で検挙される物情騒然たる世の中であつた。
▽中央の鋭い官憲の目をのがれるようにして、地方で印刷する手を考えた左翼雑誌を引受けたのはその頃だつた。誌名はうら覚えではつきりしないが、なかなか聞えていたように思う。それに部数がとても多く、ちよつとうろたえたことを思い出す。
▽ところが製本所に廻したそつくりが押さえられ、発禁の憂目に遭つてしまつた。そのうえ私服の憲兵がうやつて来て、受註した事情や忌諱に触れた個所を詰問した。父は少しも驚かず、これに対応していたことも目に浮ぶ。
▽父はもとより剛直の方で兵隊あがり。上官に直言すること屡々、ために昇進にも差支えた。日清、日露両戦役に参加の軍歴がある。姉が小学校に入つた教室で、同じ貧乏人ばかりを片寄せた席順にしむけたといつて受持教師に談判した。しかしそれは父の思い違いで五十音順に並べたのが偶然そうなつたということでケリがついた。
▽私の友達からも印刷を注文して貰えるようになつた初め、平井蒼太君(川柳雑誌不朽洞会員で、風俗研究家。いま川崎にあり、壺中庵という古書肆)が発行した限定版「麻尼亜」を引受け、その第六号が発禁になつたのは昭和八年の五月のこと。
▽ようやく右翼が台頭し出した折若い人から頼まれ詩集を印刷したが、内容は激烈な詞藻で盛られていたのか、やつぱり製本所に行つたままで押さえられた。それから間もなく幼な友達がやつて来て花街の見聞録をイロつぽく編集した「花柳粋妓伝」を出すという。早速私は松江で芸者をやりながら川柳をものする雛千代の句と粋人で通つた坊野寿山の花柳吟を抄出してやつた。凝つたつもりで表紙と遊びのページを引受けて印刷して悦に入つたが、その華々しい出版記念会の席上、これはまた晴天の霹靂、発禁の披露とは相成つた。記事中「天癸雑考」がいささか当時刺戟的だつたらしい。ツイテいない禁じられたお遊びか。