九月

▽太閤秀吉は大阪城を築いた時分に、虎を飼つていた。激を飛ばしその餌として、近傍から犬を集めさせた。犬の飼主は大いに恐縮した。(加藤清正虎退治)のキヤツチフレーズもあつて、文禄の役あたり、朝鮮から虎を輸入して来たものらしい。
▽虎は犬が大好物で「茅亭客話」という本のなかに、凡そ虎、狗を食へば必ず酔ふ、狗は虎の酒なりなどと記されている。獰猛な虎にかかつてはいかな敏捷な犬でも、体格の点で劣つているから、一つ檻に放たれればたまつたものではなかつたろう。
▽「醒睡笑」や「曽呂利狂歌咄」を原拠としている小咄に、犬撃退法のひとつとして、虎一字を以てすれば忽ち退散というのがある。
    「犬のほへるとき、虎といふ
   字を手に書いて握つて居れば、
   ほへぬと貴様に聞いて、大きな
   目に逢ふた」「何としたぞ」
   「ゆふべ夜更けて帰るとて、何
   が犬めがほへかゝる所へ、握つ
   た手を出したら、これ、この様
   にてしたゝか喰ひ付かれた」「ム
   ウそりや無筆の犬であろふ」
        (鳥の町)安永五年刊
▽わが愛犬は何を以てすれば吠え方止めの姿勢にかえるのだろう。警戒管制の万全を期するうえからは褒賞ものだが、夜中に長々とやらかされては近所の安眠を妨害することになつて、ねむい目をこすりながら犬舎まで叱りにゆくことになる。御主人さま、晩いところ畏れ入りました、つい口を辷らして相済みませんと、平身低頭すればまさか邪見にも出来まい。
▽さりとて虎一字を掌に書いてパツとやつても、もともと文盲だから効き目はない。掌を矢庭にパツと開けば、目に見えぬ大きい力の虎を意識せずに、何かうまい物を持つて来てくれたかと、待ちかまえるさもしい性質だから、まつたくお話にならない。餌に釣られて吠えるのをやめる愛嬌ものだ。
▽わが愛犬は無筆、しよぼしよぼした瞳であるから、老眼鏡を掛けさせてやりたいところだが、それを買つてやるまでもない。或る日私が大空へ向つて、虎一字を教えこもうと、故実をふりかざしながら力強く書いたら、愛犬はその時こくりと首をかしげたのである。