三月

▽わが先輩は農閑期を利用して江戸へ出稼ぎに赴いた。一団となつてガヤガヤ無駄口をたたきながら賑やかだつた。雪深い郷国をあとにして、異郷のいく月かが先輩らの日頃の望みであつた。それほど季節的にきびしく、また貧しかつたのであろう。
▽薪割、飯焚、下働きがその与えられた職である。古川柳にも江戸小咄にもわが先輩は題材に好餌を提供した。粗野で野暮で、田舎ツポであつたが、私たちには善良さの方が胸に伝わつてくる。
▽わが先輩はどんなだつたろうと臆測しつつも、私は裏庭でよく薪割をする。大きな枕の木へ十文字風に薪を置き、これを真つ二つにしようというのである。無器用と来ているからうまく割れない。でも至極真面目になつて斧を振り上げる。
▽ぐさつと命中せずに枕だけを傷めることが屡々だ。そこのところがだんだん凹んでくる。押さえている片方の足首へでも斧が狂つてはおしまいだから、今度は薪を地面にオン柱のように突つ立てる。そしてこれに向うのである。
▽案の定、地面をたたきつけることがお上手だ。人が見ているなと思うと、私は薪割をしないことにしている。手が狂うし、おだやかでない。何でまたあんな下手糞が薪割を思い立つたのか、そうさげすまれるのがくやしいし、それ以上に、人が見ているという意識が咲きに立つて手を狂わし、足を割りかねないのである。
▽たまにはものの見事に両断してわれながら快哉を心のなかで叫ぶばかりか、素頓狂な声を出して嬉しがる。しかしほんのかすり傷程度のまま、その残痕があたりに飛び散つてゆくときがある。音を立てず発止と行方は定かでない。近くの外来用トイレの戸をしたたか叩き「エヘン」と怒鳴られたのにはこちらが驚いた。かしこまつていたらしい。てつきり後を催促したノツクと思つたのである。
▽でもわが愛犬だけはその傍観を許す。「御主人様ご苦労さま」ふと見ると目の廻りを丸く彩どられそれに眼鏡まで掛けている。誰かにいたずらされて隈取られたのだろう。老眼鏡を掛けるとは、わが愛犬も老いのしよぼ〱目か。