二月

▽飼主がいかにお風呂嫌いでも、愛犬くらいは湯浴みさせてやろうと、気を利かせた連中が手足をとらえての洗いようだ。至極柔順で通つている犬のこと、なすがままである。だがあとがいけない。風邪を引かせてしまつたのである。犬なんか風邪を引くものかとあやしむ人もあろうが、拭き足らないで体毛に残つている滴がそうさせたものらしい。
▽あくるとし年賀状が来た。その中にこんな名前の人は知らない、間違つたかなと頭をかしげるのが一枚。でもやつとわかつた。愛犬をつぶさに診断してくれた獣医師のものだ。臨床できちんきちんと支払つた注射料のいく本かがものを言つたと判断し、犬の顔をちらと思い浮かべた。
▽いくらお風呂嫌いでも一週間も二週間も入らないのではない。うちで立てればまことにおとなしく入浴するし、洗えるところはひとりでよく洗う。お江戸川柳にあるような熱湯好きの憎つくい奴ではない。でも長湯は嫌いだ。鴉の行水とたまにはからかわれるが、本人は苦にもしないのである。鴉がどんなに早いのか、漆黒な羽をパタパタやつただけですつと立ちあがる姿は見たことがないから、その秒速を争うには困難だ。
▽野生動物追跡の記録を書いた戸川幸夫氏の「小さな動物たち」のなかに(鴉の賦)がある。白い氷原と化したオホーツク海の写真の鴉は実に孤独である。膚をさすような冷厳あくなき氷のなかで、その孤独の悲しいとりと、まさか行水をためすわけにはゆくまい。
▽私の行きつけのお風呂屋さんにライバルがいた。ということは私と覇を競つていたことになる。当人の知らないことを幸いに、ほんとうは卑怯だが、ひとりすましで優越感に浸ろうとしたのだ。あとでうちの女房に長大息していうことに「民チヤンにはかなわない。今度こそと思つて早く始末をつけたつもりでも、一足早く出ていつてしまう。負けた負けた」
▽丸裸で虎視眈々と私をねらつたむくつけき男がいようとはそれまで知らなかつた。愛すべき隣人である。然しこの人はすでに亡い。私はそれを思い出しながら無精髭を切れそうもない剃刀であてる。