八月

▽うちの犬も年寄りになつたと思う。十歳をはるかに越している。人間ならさしむき老齢である。皺くちや婆さんというところ、寄る年波のまにまに腰が曲つて杖を突きたいだろうが、あの風采ではそうもならない。
▽飼主に自重をうながす世評が手伝つて、このところ裏で鎖にしばられている。所在なく、目をつむつているときが多く、吠える元気すらない。若いとき、朝、戸を明けるとただ無性にあたりかまわず外に出た開放感で上を向いて吠え立てた昔がなつかしいだろう。
▽小さいときは家人が外に出掛けると、誰にでも従いて来て初めは可愛かつたが、そろそろうるさくなる。こんなことがあつた。犬にも縄張りがあつてよその顔がちらちらすると追い廻して喧嘩だ。お多聞にもれず、従いて来た道すがらそのテで随分追つ駈け廻され、果ては路地から逃げ場所を求めて走るが、ドンヅマリ、そこでよそさまのお座敷にまであがりこんで「何とかして頂戴」と哀願とはなる。犬の闖入でオドロキ。でも小さいから、わけがわかつてくれたものだ。
▽「お手を貸せ」という。ひよつと片つぽのテをあげて人間のてのひらの上に乗せる。「おあずけ」という。好物を目の前にして残酷物語。このふたつ、よく覚えた。
▽学校に通う子供に従いて行くので困つた。そこでお菓子を食べさせ、いいときを見はからつて「おあずけ」を宣告。その隙にすばやく登校。この朝のタイミングはユーモアが含まれていた。
▽齢は向うの方がやつてくる。この犬も少し齢をとりつつある。でもよぼよぼではない。いつそピチピチした犬と飼い代えよう、この犬は大学病院要請の実験用に提供したらという意見が出た。しかし実験されて、ビツコをひきながら眼も霞んだ後で、病院の見舞に出掛けたときに逢い「むかしの御主人さま、お久しぶり」こうやられると可哀相だということにオチがついて、うちで安住している。
▽犬は近眼だとのこと。いのちを見るにも近眼だろう。そうバカにしたものではない。さてお前さんはどうだかネと、いぶかるようにこちらを向いた。