六月

▽親睦という意味もあつて第十四回新潟県下川柳大会にぶらりと出掛けた。六月九日が大会当日だがその前日の夕方、新津に着いた。
▽昭和二十五年にその第一回と目される大会に長岡市へ行つたことがあつた。山田凡楽さんや深田白扇さんの肝入りだつたと思う。お二人とも神戸から新潟県疎開したまま、おちついてしまつたような環境のなかで、長く不毛の地として定評のあつた新潟県下に川柳の芽を育てようとする空気が徐々に燃え立つていた矢先だつた。
▽どこか戦災の余燼がくすぶつている長岡市の、とあるお寺の静かなところだつた。おこがましくも私が一席ブツた記憶がある。そしてまた二十七年に伊藤蘇子さんのすすめで新潟市に赴いた。
▽久し振りに来て大野風柳さんたちのお努力のほどがわかつた。折角来たのに阿達義雄さんに会えずに帰つたのが心残りだつた。すまなくも思つた。
▽懇親会になつて地元の人たちの踊つた民謡「新津松坂」の哀怨な節まわしが妙に胸をしずめた。
▽留守をしていたら東京の阿部佐保蘭さんが上高地の帰りにうちに寄つてくれたことがわかつた。相変わらずお元気で、如才なかつたらしかつた。
▽六月十三日に「川柳研究」の三浦三朗さんが社用の道すがら寄つて下さつた。川上三太郎さんの紹介状つきである。丁寧な人だと思つた。
▽何はともあれ夜になつて近い同人に集つて、貰つた。実茶君が大正二年、三朗さんが大正三年、典夫君が大正四年、汗青君が大正五年雅登君が大正六年とつづく生れ年が一堂に会した。私が飛んで齢のうえでは先輩。
▽天才と冗舌を自称するだけあつて、よく句を覚えておられ、そして筋道よく話された。私たち田舎者は煙にまかれた如くであつたが威猛高にならず敢えて気取らず、句会の虫になり切つていて、その発想態度のひらめきときつかけは私たちの追随を許さなかつた。
▽この日、一日中雨が降つた。日本アルプスは見えなかつた。でも山国に来ている空気のうまさを食べながら、三朗さんはしきりに川柳も食べていた。