三月

▽平素おちついたような顔をして取り澄ましているので、よほどきつい御人だと思われるのが癪である。とてもどうして、これは、というときにあわてふためくのである。よそ目にも痛々しいらしい。
▽いつも無精髭ですませているが何かの用事で、どうもその髭ではと家族のものにいわれ、しぶしぶとそれも時間が切迫して鏡の前にゆくが、ろくに石鹸もつけず、時によればわが唾でなせくつて、髭を剃ろうとさえする。もう時間がないよとせかされると、ひよつと剃刀の当てがはずれ血がにじみ出てくる。押さえてバスに乗つてもなかなかとまらないことがあつてうろうろするのである。
▽ないわけではないが、あのフロツクコートというのは滅多に着ない。ましてお葬式でも略服で行くのがわが通例で、決しておめかしではなく、それが礼儀なのにどうも苦手である。はずかしい気持があつて、わが齢を振り返りいささかそんなお前かとたしなめられそうだが、都大路のようでなくてもこんな田舎の街通りをひとりフロツクコートで歩いてゆくと、目立ちつつもてれるのである。われながら捨てがたい味だと思うが、世間では許してくれそうもない。
▽でも義理は缺かさない。お焼香で心から合掌し、いたく故人の冥福を祈る純真無垢なひとときを得て香水よりナフタリンより匂いでは一番好きな線香の流れを鼻にほのかにも識つて居直るのである。
▽先日そそくさと式場に行つたら誰もいない。またあわててお寺を間違えたかと思つたが、たしかにここである筈だ。表通りでお寺の所在を聞いたが、いま行つたところ。おかしなことだと思い、もう一度不審顔に歩いてゆくと、坊さんらしい人に会つた。告別式は明日あるそうですと丁寧にやられ、ギヤフン。すごすご帰つた。
▽ずつと前、胃下垂で腹巻きをしていると、胃を上下に押しあげるから効果がある、それを聞き実行していつの間にか治つたが、惰性でこれをいま以て素直にしつづけている。割に長いやつで、寝る前にくるくると巻いておくが、朝などあわてると始末におえなく、するする手から放れ、見る見る長く解けてころがつてゆくのである。