二月

▽いつも見守つていてくれ、思いもかけず声をかけられると嬉しいものである。昭和三十六年一月号から本誌の題字は斎藤昌三さんの筆だが、ひよつこり送つてくれたものである。初めは少雨荘という署名であつたが、本人の希望で途中で削つた。これを送つて寄こされたときほんとうに嬉しかつた。でも昌三さんは昨年十一月二十六日に逝くなつた。
▽私は蔵書票というものに関心があつて、本誌の昭和十三年二月号から昭和十五年十月号まで、断続的に「蔵書票紹介」というカラーページを組み、それが二十五回に及んだ。棟方志功川上澄生前川千帆、西田武雄、小林朝治、料治朝鳴、関野準一郎、武藤完一、中田一男、さとう・よねじろう、小塚省治、蛭子省二氏などが快く執筆してくれ、その昭和十五年五月号に斎藤さんは「蔵書票寸信」というのを書いている。
▽斎藤さんは二度松本に来た。一度は池田木一氏と一緒だつた。木一さんは装釘家で、伊東忠太琉球」は評判がよかつた。東峰書房刊、木一さんからいたゞき、いまも大切にしている。昭和十七年秋の頃だ。池田さんは大成するだろうと嘱望されたが、のち戦死したと聞き伝えている。
▽昌三さんの好著「蔵書票の話」をやつと古本屋で手に入れた喜びは今も忘れない。そんなことで私は斎藤さんと知り合つたのであろう。斎藤さんが出されている「書物展望」の昭和十三年三月号の表紙に私のエキスリブリス、前川千帆作の「雲雀」が載せられた。これも想い出だ。
▽昭和十三年三月号に書いてくれた「川柳界の先輩知己」はのちに少雨荘随筆『銀魚部隊』に載せられた。此頃調べて見たら昭和二十一年十月号に「門外漢語」二十九年十一月号に「川柳と横浜」昭和卅五年八月号に「ヘギ盆・経木本の話」を書き、母袋未知庵君が逝くなつた追悼記をお願いしたら卅三年八月号に「失礼な追悼」を寄せられた。母袋君といえば書物展望社から「川柳楠公記」が出、川柳関係では大曲駒村の「川柳岡場所考」が出た。先年、町内の旅行で茅ヶ崎駅を通つたが寄れなかつた。残念だつた。