六月

▽自転車に錠をかけたことは確かだが、さて鍵はどこへやつたろうと、慌てれば慌てるほど見つからない。少し左利きのところがあつて、書くときは右手だが、ポケツトに手を入れるときは左の方が多いようだ。だから左のポケツトに入つていなければならない筈なのに、さてないとなると、おや、どうしたのだろう、慌て出すと汗がにじみ出てくる。もうひとつの合鍵が家にあるから、電話をかけて取り寄せようかと思うが、またあとでからかわれるのが臆劫だ。よく調べたら何のことはない。ポケツトの入口にひつかかつていた。
▽こんな遠い所へ乗つて来て、さて盗まれたとなると、テクテク家まで歩いてゆくのも誠に面倒くさい。くたびれて、泥だらけで、色艶のない自転車だが、必ず鍵をかけておくことにしている。
▽同人岩井汗青君のとつておきの話。錠をかけておいた自転車がかき消すようになくなつていた。門があつて、その空地にたしかに鍵をぬいておいたのだ。息子が乗つてゆくからというので鍵を渡したら、お父さん自転車がない。そんな莫迦のことはないぞ。だつてないんだもの。風呂に入つているので裸のままでさがしに行くわけにはいかない。息子はてつきり盗まれたと思つて道路へ出た。いつも点いている電柱のあかりが今夜に限つて真暗だ。遠くをすかして見ると道を曲つてゆく人影がある。それも自転車をかついでだ。矢庭に走つた。おじさん、その自転車は誰のだい。この俺のものさ。何でかついで行くの。鍵を失くしてしまつたから仕方ないさ。おじさん、何をしらばつくれているのと言うが早いか、ひとつすごいパンチを呉れた。高校三年生。まさしく家のものだとわかつたから正義感が許さない。自転車によりかかりながらぐつたりとのびた。
▽やれ〱と思つて少しこちらもためらつたところを見すましてその盗人がすばやく立ちあがつた途端一目散。あつと言う間もない。追うのも忘れて家へ引き返した。追えばよかつたじゃあないか。でもね、ちらつと見たところ、お父さんくらいの年輩で、二度目の腕がにぶつちやつた。何だか可哀相になつてしまつたんだよ。