一月

▽いまの川柳を作句するようになつた動機が、古川柳を研究してこれを現代川柳に意味づけたい考えで入門するというのは稀れなのかも知れない。友人にすゝめられたり、うたが好きなのでというありふれたきつかけが多い。新聞や雑誌に掲載されている川柳欄に投句しているうちに、専門の川柳雑誌を知るようになつて作家らしい心がまえを持つ人もあろうし、新聞や雑誌以外は好まずにそれだけの畑のなかで倦まない人もあろう。
▽新聞といつても時事吟のものとそれをも含んだ広い場の吟詠と二大別されている。時事吟が消える文学と言われ、消えるから責任がない、責任のないものはいやだとむきになつて毛嫌いしている人もある。刻々と変る時事批判を十七音律でかなでるのが一番読者にはピンと来るから捨てたものではないといつて、大いにこの方面に活躍している人もある。
▽新聞の時事吟以外のものではなまぬるく、温存するその雰囲気が歯がゆくて見ていられないと思いどうも時事吟は真の創作目的を果し得ないくさみがあり、そのやりきれない言葉のやりくりが現代川柳の本領を傷つけているではないかと思うといつた具合に、なか〱意見はあるものである。
▽新聞、雑誌にいつしかセクト主義のようなものがあらわれ、抜くべからざるムードをかもし、それがまた特長づけた匂いを発散してくれる。だからそれらしいものが何となくたゞよい、見かたによれば惰性となつて回転しつゞけるのである。新聞雑誌のほんの一隅に掲載される川柳欄に於てもそうだから、専門の川柳雑誌は尚更のことである。
▽ひとつにとゞまること、ひとつにこりかたまることは創作に於ていさぎよしとしない。あくまで進展し、あくまで野心的でありたいのである。伝統の軌をはずれるほどの飛躍は決してよい意味の飛躍でないことを知つていて、古くさい言葉だが、伝統を生かした気持はつねに育てゝゆくべきである
▽古川柳の全部を読むことに越したことはないが、それほどにせずとも古川柳の生きかた、流れはどんなものであつたか、これを今日に力付けたいと私は思う。