十二月

▽句会無用論というものもあつて句会のかもすくさ〲の弊害をあげつらう。につちもさつちもいかない慣用性に馴れきつたごく僅かなマニヤを目の仇にして、句会向上へのさまたげを指摘するのである。こうした人たちはたゞ選者の選句に採られることに汲々としているのであつて、自分の句というもののねらいや誇りを感じようとしないのである。抜ける句は少くとも、ほんとうに自分の真意からほとばしり出る作品と取つ組む人のあることも考えねばならない。
▽要は場がどうあろうともいゝ作品をつくることである。いゝ作品とは誰にもわかり誰にも共鳴出来るものであることは無論だが、句会吟と限らず鑑賞する人の句歴もものを言うことになる。だからそういう点も考慮にいれておかないと、難句と一概にけなしさることは出来ない。作品から掬みとれる自分の照応の限りを惜しんではならないと思う。
▽題は何でもよいというわけにはいかない。どんな題でもこなすことはいゝけれど、その出題の態度や作品となつた場合の作者のそれ〲の着想、つまりどう詠うかのはつきりした方向が意欲的であることがのぞましい。東京地方の句会の題に対する心掛けと関西地方のとは少し違うようだ。これは私が前にも本欄で書いたことがあるが、関西は題そのまゝを句のなかに入れたがる。東京ではその題の雰囲気を出そうとして題そのまゝを敢えて入れないこともある。いわば前句附の精神がいゝ意味で残つているのであろう。
▽なんでもいゝようなものの、さて出題となると頭を悩ますものである。あれもやつた、これもやつたというふうに、たくさん語彙はあるがちよつと手間取る。しなの川柳社では新年句会の宿題は十二月句会のとき、みんなにいろ〱出して貰い、それをえり抜いてまた厳選し、よさそうと思うものを話し合いできめている。その年の干支に因んだもの、お正月気分を味わうために色つぽいものの二題だけ特定的な指示がある。前者は「牛」ときまり後者は昨年の(女湯)に対し(男湯)や(女難)や(初潮)をけおとして(うぶ毛)ときまつた。作品が待たれる。