五月

▽川柳大会は盛んであることが望ましい。人によつて有象無象のゴツチヤでは意味がない、たゞ量だけ誇つていてはどうかと首をかしげる手合いもあろうが、それは考えようで、とにかく集る者の川柳作家の糾合であることはたしかだから、玉石混淆とか量だ質だをこゝではそつとひかえて、たまに集る者たちの顔の健在をお互い映し合うことは愉しいものである。
▽折角遠くから来るのだから歓待におさ〱怠りないことにこしたことはないが、受け入れの方が手不足で一人何役という転手古舞をさせられるのが普通のようだ。でも苦情は言わず、快く接してくれるのでありがたいなあと思う。
▽接待にお菓子はどうする、賞品はどうするこわれかゝつた持ち廻りのカツプの取り扱いはどうするとちよこ〱相談せねばならぬことが出るものである。賞品は洩れなく行き亘ることに努力すべきだが、費用の点でそういかないときもある。総花的でなくて貰わないものが出て来てもそれほど気にしない。よく心得ている。
▽大会は大勢で句を作るつどいだから、いきおいその方に時間をふさげてしまう。しのぎを削るまでに闘志満々型、句を愛するという光風斉月型、いろ〱ある。披講には誰でも一膝前に進ませて傾聴するが、それが何よりの醍醐味というもの。ところが発表が終り入選がきまつて賞品が渡され、かた通り閉会の辞となると三々五々、ちり〲になつてしまう。一潟千里で大会がスムースに終つたようなものの、あつけないと思うこともある。それは折角集つた人たちが個人々々でゆつくり膝を交えて歓談の出来ぬことで、少しでも話す時間がとつてあつたらと考える人が多いらしい。
▽わが長野県川柳大会では毎年場所が違う。つまり主催するものが交替するのである。いつも同じ人が苦労するのではなくて、順々に廻り持ちになる。それだけ引き受けるグループが多いことだから誇つてもよい。それと共に次の会場をきめるのにも決して強いたり、投票などできめることはせず、みんないろ〱の意見を持ち寄つて共通の声の盛り上りできめられるのである。これも誇つてよい。