一、二月

▽割合いと突つ込んだ手紙を出せる人に前田雀郎さんがあつた。私はとき〲そうした熱つぽい手紙を強いたようなかたちになつたけれど、柳界に対する私見を率直に書いてお意見をきこうとした。よくお返事をいたゞいた。ありがたいことであつた。ものごとに親切な人だなあという印象を、書いたものから、また動作から受け入れた。その雀郎さんは一月二十七日に逝くなつてしまわれた。いたましいことである。六十三歳。
▽本誌に快く寄稿していたゞいたが、どれもないがしろにしない文章で且つ内容も示唆に富むものであつた。「柳多留に於ける原句改作とその意図するもの」「川柳と小咄」「幸田露伴の川柳観」「田舎樽に於ける狂句なる文学に就て」「三笠附が前句附を源とするという説に就て」「狸料理考」等である。作家であると共に川柳史研究を志され、その渕源をたどることによつて今日の川柳のありかたを識る態度であつた。
▽また料理通でもあつた。よく本を読まれ、よく作句し、よく培つていつた。原稿は達筆と思われる書きようで、漢字には大抵フリガナをつけられた。「さびしさを知り合つてゐて他人なり」雀郎さんのこの句を私は好んで半折に揮毫してもらつた。
▽三十一年六月十七日の税のしるべ甲信大会に松本に来られた。三十三年一月、番傘五十年記念の大阪で逢つたのが最後であつた。
▽松山の前田伍健さんが二月十一日に急逝せられた。七十一歳。長い間の知り合いであつたが、やつと番傘五十年記念のとき逢えたときは嬉しかつた。それが初めで、それが終りであつた。人生のつれなさを思うことしきりである。
▽伍健さんは手馴れた筆蹟で句も絵もよくした。狐をぼかした淡彩の画賛「大吉のみくじに今日のこころもち」の色紙を愛読しているが、麻生路郎さんにお目にかけたとき、これは傑作だよとおつしやつてくれた。
▽本誌の表紙は伝統的に版画が多いが、昭和十四年一月号から六月号までは前田伍健さんの手彫りの版画を入れた。山が遠くに見え、菅笠合羽のひとを乗せた馬と馬子の図柄である。なつかしい。