八月

▽いたつて気の小さい癖にときどき死ということを考える。深刻がるなと叱られそうだが、ひとり静かに酒をふくんで目を閉じながらふつと浮んでくる死ということのありようが、私の臆病なこゝろを突つつくのである。
▽私は平静にゆつくり酒をひとりで飲むことが好きである。そんなとき、人生はたのしいものでなお生きながらえたいと思い、また一瞬いのちの不思議さにむすびついてゆく。嫁ぎゆくべき年頃の娘があり、まだ学校にまなぶ伜と末の娘が私の影をたよりにしているように見えるのである。子供たちはせゝこましいそんな考えを持つてはいないかも知れないが、みゝつちくも中年の父親はかんぐつているのに自分でも気付く。
▽もうこゝ信州では夜になると虫が秋の近づいたことを知らせる。庭一面に咲いた秋海棠のつぶらな淡紅色の花が、季節の傾斜を告げてくる。私の感傷をそゝるのにふさわしいということになる。それを聞き、これを灯を通して見ながら、陶然と盃をなめるのである。
▽品川陣居さんや小山波而さんも逝くなつたし、本誌の同人である下条とほるさん(青木徹)もこの七月三十日に逝くなつた。もうこの世のなかに居ない人の俤を追いつゝ、死に直面したときの自分の狼狽振りが目に見えるようで恥ずかしい。悟りすましておさらばをしられそうにもないのである。
▽私も嘗て生死の境をさまよつたことがある。それは二十才台のときだつたが、いま考えて見るとただ苦しいことのみの記憶で、死ということを頭にひらめかせた印象はなかつた。若すぎたからでもあろうけれど。
▽句を作ろうとする場合、自分を大切にしなければならない。魂を打ち込むことである。句会吟であつても雑吟であつても、おろそかにしてはならないのだろう。句は残るからである。真剣なおももちで句と闘いたい。でもまた一方、気軽な、ぐつとくだけた気分で作る場合も出て来る。作者は同じひとだが、その円滑性は容認せらるべきであろう。
▽死に遭うことのきびしさと句を作るときの態度に、廻りくどいむすびつけを考えてみた。