六、七月

▽われ〱のような田舎では句会はせい〲月一回か二回である。たつた一回であり二回である句会すら満足に出席出来ないことがあるが、その原因は気が乗らないことや突き破れない壁にぶつつかつてどうにもならない創作的な障害であつたりする。スランプにおちいるということは人間のからだや感情がいつも正しい方向に指さないと同じような立場を考えると容認しないわけにはまいらぬ。
▽きび〱した緊張のコンデイシヨンで雄心勃々たる気概をもちながら句会に立ち向うことはのぞましいことであるのである。いつでもそうであつてほしいのであるけれど、そこは弱い人間のこと、たま〱面白くないことが身の廻りにまつわりついたりして、精神的なちよつとした打撃で句の求める微妙なキヤツチを自らとらえにくからしめることがあるのである。
▽句会に出席出来ないもうひとつの原因は、自分がなおざりな怠惰心で、うつり気な、その場の雰囲気に自分だけを利口ぶらせようとすることに急で、たいしたわけもない癖に敢えてずらかつてえらぶる風を装う気分の持ち主の場合であつたりするのである。
▽たまに出席して意外なよい成績をかち取ることがあつたりする。句語のあやつり、句体の素晴らしさがはずみをもつて選者の心をゆすぶり、しかつめらしい選者の好みに投じたことになるのである。こうしたときその作者はあくまで謙虚で楚々たる態度を持することである。さすがだ、単調を破るものだとみんな思うのである。そしてつながることは句会の刺戟と励みの一本の線を意義立てることになつて句会の句会たる雰囲気と周囲の味わいを身を以て感じとるお互いを照し合わせ、快い道場であることを反芻する。
▽句はつねにうまく、句はつねにすぐれていることは創作するものの願いである。それがピークだ。ピンと張りつめた弓から放たれる矢が句会に生れる佳句として次々と発表されるとき、私たちは句会の存在を確認し合うだろう。そうでなければならない。
▽及公出でずんばという気概の人と、黙々とつゝましく作句する人も句会にはなければならぬ。