五月

▽いつだつたか、何かの座談会で東京の句会はなか〱の旺盛、うまい句が多いが、関西方面はこれに比較すると、案外句会吟は見劣りがするということが語られていた。つまり東京は句会中心的で、関西は雑詠に重きを置くというわけである。
▽東京は競詠意識が高められているから、作句に対する心がまえがきびしく、ごく気軽なつもりでいてはいつの間にか追い抜かれてしまう。みんな真剣なのである。創作するという頼もしさが充ち溢れ新しい境地を句会吟のなかに盛り込もうとする雰囲気が打々発止と火華を散らすのである。
▽私はたまに大会などに招かれただけしか東京の句会の実態を知らないので口幅つたいことは言えないが、そうした激しい競詠のなかに生まれてくる句会吟としての努力を惜しまないことはいゝことだと思う。
▽お互い切磋琢磨するために四囲にライバルを常に感じて、句会の盛り上りをいやがうえにも高まらせることは、句会の本態からいつて当然だ。句会マニヤを出したり句会だけしか句を作らない人をのさばらしたりすることはあろう。だが句がすぐれた境地や技術を生み出すためにあるのなら、敢えてきびしい創作に於ける対立は避くべきものではない。
▽衆目の見るところ、いやらしい句、えげつない傾向に持つてゆこうとする句であつたりするならばおのずから脱落してしまうものなのだ。
▽関西では天地人、五客を廃止して競争意識を矯め、あくまで融和と親密と情誼をもとにして句会をたのしむ精神を尊んでいるようである。その底にはセクト主義を胚胎する嫌いを蔵してはいるが。
▽東京では「ぼんやり」「ものは相談」「枯木も山の賑わい」と出しても関西のように題そのまゝを句のなかに入れることをせずに、おおらかな広場を求めて題意をこなし、構想のひろがりに意を注いでいるようである。関西はやゝ画一的で「悪人」「道徳」「月賦」等の並列に終始している。
▽思いようによれば東京は前句附の渕源をゆくりなくも会得し、これを現代的に活用しているのだ。