二月

▽題を出して句を作ることは益々川柳の進歩を阻むものであつて、自由であるべき発展をゆがませるも甚だしいと言う人もある。なるほど題にこだわり過ぎておおらかな雰囲気を出しこなせぬことはあり得る。だがそれは作者の心がまえにあるのであつて、決して題を出すことにすべてを負わすべきではない。題にあまり拘泥したり謬着したりすると硬くて味気ないものが出来易い。それに題そのものの出し方にも余程工夫を要する。
▽集つてくる人たちの顔色を見い見いしたような出題方法もある。「枯木も山の賑わい」「日本の喜劇」となると大いに作者たちを苦しめるのである。「のど自慢」は楽なようでいてむつかしい。それも志向する人たちの句風があくまで追究しようと言う真剣な態度でお互いを切磋琢磨の広場に置いているとなれば尚更のことである。
▽もし「姑」と出そう。句を始めたばかりの人なら嫁をいじめたり或いは孫を抱いたりする着想で作ることであろう。しかし新しい時代に目覚めた若い人たちは、そうした古い思惑に見向きもせずに心のなかに育てられた発想を駆便することであろう。古川柳のなかで巾を利かした姑の概念に捉われ過ぎては陳腐だし、また姑というものは昔も今も同じいいじりかたのかたまりである事実を詠つたまでで、これこそ実感であるとひらきなおりたい人もあろうがどうか。
▽私たちをとりまくいろ〱のギヤツプに「詠う」実作者として或る種の抵抗が物を言わせ、そして時によつて感銘を与えようと努力するのである。現象や心理のいきさつをうまく十七音律化する技術もさることながら、大衆詩というレツテルのなかで川柳作家の常識を遺憾なく発揮し、いわゆる民衆の代弁者としての説得や伝達のうえに睥睨する自覚をつねに培つてゆくべきは当然であろう。
▽そういう意味で選ばれた声、選ばれた力、選ばれた願いは川柳作家に与えられた見事なるうたとなつてゆきわたるのである。川柳作家が現代のもろ〱の事象に対して、真摯的確なる鏡になり得るかどうかは、川柳作家自身の責任に通ずるわけだ。「題」に軽々しい態度はつゝしむべき理由である。