一月

▽秋田から出ている「あすなろ」一月号に千歳健氏が川柳を文学としてあらしめるためにはどんなことが必要であるか、従来の川柳に関するいろいろのありようを検討すると言い(句会について)(作品の発表)(選について)(題詠について)を挙げて短い意見を述べてある。
▽そのひとつ(句会について)を見ると、〈あそび〉の悪いとこだけが残つていると言つてもよいくらいだとしてある。長い病床にあえいでいたり、変に孤高を気取りたがつたり、誰が何と言おうとも自分の句だけの執着にとりつかれている人達は、句会の愉しい雰囲気を知らず、烏合の衆として蔑視し、寛容の美しさを味わい得ないようである。
▽句会は句をもてあそぶところ、ゲラゲラ笑つて披講を聞くところときめているのだろう。自分の句を選者に張つて(好み)の入選に浮身をやつしたり、点数にひどくこだわつて衆目を浴びたり、句会のあとの雑談のなかに思いもよらぬ係り合いが出て辟易したりすることを以て、句会嫌悪の感じを深くすることもあるだろう。
▽それらのうちにはたしかに改め警しめ合わなければならないこともあるけれど、句会そのものの運営や司会の指導によつては、川柳を愛する人達との結びつき、川柳そのものの人生的な意義の走り、初心者の撓まず屈せぬ場としてのありよう、作家ひとりひとりの自省と野心へのいざないにはなるものである。
▽千歳健氏の言う〈あそび〉は遊戯的を意味するのだろうが、考えようによれば徹底的なあそびにあそぶ精神のなかに作句のほんとうの要諦がひそんでいるのである。〈あそび〉と言えばすぐに自堕落な発展のない卑屈で投げやりなその場限りの慰めごとにきめつけたがるが、句会に対する考えかたや心がまえによつては、これほどおおらかな川柳文学をとりまく雰囲気をかもし出すものはなく、作句にきびしく、研究に倦まない人達の真剣なまなざしにお互いの意欲をかりたてるのである。
▽句会が川柳の第一の目的とは決して言うつもりはないが、その存在価値はあり得る筈と思われる。