八月

▽右側から話されるとちよつとまごつくことがある。並んで歩いたり、バスや汽車に友達と一しよに乗るときは、なるべく自分が右側になるやうにしてゐる。先方で親しさうに聞いて貰ひたい風にして話しかけられるときなど、右の方の耳が遠くなつたのでその側からだともどかしく、さうかといつて全然返事をしないのも本意なく思はれるし、相手にとつては意外な相槌を打つこともたまにあつたりして、右の耳の難聴でわれながらいらだつことがある。
▽はたちの頃、腸チフスに罹り、それが少し嵩じて普通の容態より一ヶ月ほど余計臥た。熱病だから耳疾を冒し易く、それが為右の耳が駄目になつたと判断してゐる。
▽隣家のお客の挨拶につい返事してしまつたり、ラヂオの会話につられて「ごめん下さい」と言へばうちにお客が来たと早合点して、あわてゝ「ハーイ」と返事しながら店先に出て見ると誰も居ない。みんなに笑はれてしまふ。
▽つんぼの早判りなどとひやかされたりしても、私は怒らないことにしてゐる。ムキになつたり、皮肉を言つたり、ネチ〱して自分をえらがらせようとそのことのために骨を折ることが出来ないたちだから、此頃流行の理窟つぽい話のやりとりは好まないし、怒らないことが唯一の信条だ。
▽いゝことは聞えて、わるいことは聞えぬのがそらとぼけるコツのやうなものらしいが、いゝこともわるいことも聞えぬ私の右の耳は正直である。自分のことを何か言つているな、それは聞えなくとも動作でわかるし、をかしがつて私の顔を見ながら笑つてゐるから、さてはまたやりをるなと思ふだけである。寛政十三「花間笑話」に
 ようよう肥立あげくの若者、つんぼ医者の所へ礼に行き、
「もし此間は、おかげで有難う」
と一礼する。
「ムウもう、よくなつたか」
 若者手拭を出して、身体を洗う真似をすると、
「オオオオ湯へ這入つてもよい」
 若い者頭を畳へ付けて、尻をもちあげ、
「ハイおとま申します」
「イヤイヤそれは、まだ早い」
▽私はこれ程聞えぬわけでない。